『花窗玻璃 シャガールの黙示』(深水黎一郎/講談社ノベルス)

花窗玻璃 シャガールの黙示 (講談社ノベルス)

花窗玻璃 シャガールの黙示 (講談社ノベルス)

 読者が犯人というケレン味たっぷりの問題作『ウルチモ・トルッコ』でデビューし、その後『エコール・ド・パリ殺人事件』『トスカの接吻』といった芸術的な薀蓄とミステリ的プロットとが巧みに融合した「芸術探偵」シリーズによってミステリ作家として確固たる地位を築いている深水黎一郎ですが、本書はその「芸術探偵」シリーズの3作目に当たります。が、はっきりいって凡作です。いや、なまじ期待度が高かったためにそのように思ってしまうのは否めないのですが、「芸術探偵」シリーズとしてこの作品が名を連ねてしまうことになるのが残念なのが正直な気持ちです。
 本書は、瞬一郎がフランスに留学していた頃に遭遇した事件の体験記を伯父である海埜刑事が読む、という作中作になっています。その瞬一郎の文章の書き方が変わっています。フランス北東部の街・ランスを舞台にした体験記であるにもかかわらず、カタカナが一切使われていないという独特の表記・文体で書かれているのです。例えば、ランス=理姆斯、ステンドグラス=花窗玻璃、といった具合に、通常カタカナで表記されるであろう言葉がすべて漢字で表記されています(もっとも、作中でも言われているとおり、ルビが振ってあるので厳密な意味でカタカナが用いられていないというわけではありませんが)。
 こうした表記が採用された理由として、ひとつには、ランスにある世界遺産にも指定されているゴシック式の大聖堂、ランス大聖堂(参考:ノートルダム大聖堂 (ランス) - Wikipedia)の壮麗さを日本語で表現するにはこの文体・表記しかないと思った、と説明されています。一理あるとは思います。例えば、フランスとランスとをカタカナ表記で並べると、後者はもしかしたら”フ”を書き落としたのでは?という不安な気持ちにならないではないです(笑)。ですが、仏蘭西(フランス)と理姆斯(ランス)であれば、そうした誤解は生じようがありません。ただ、結局は単にカタカナを漢字に置き換えただけとしか思えません。ランス大聖堂の壮麗さを表現したかったのであれば、セオリーどおり語彙を凝らし描写を重ねることによるべきでしょう。
 もうひとつ、瞬一郎が大聖堂に設置されているシャガールのステンドグラスの前で味わった酩酊感・頭痛や眩暈といったものを読者にも追体験させるために、わざわざこうした読みにくい表記を採用して大聖堂の細部を描写した、という理由もあります。「読みにくさを売りにするのは小説としていかがなものか?」という根本的な疑問はさておくとしても、この程度の工夫で読者が酩酊感を覚えるだろうと本気で考えたのだとしたら甘いとしかいいようがありません。確かに、お世辞にも読みやすい文章だとはいえません。ですが、講談社ノベルスには何といっても京極夏彦による京極堂シリーズという前例があるではありませんか。もちろん、京極堂シリーズの舞台は戦後間もない日本ですしカタカナも使われていますので本書の場合とは全然事情が違います。ですが、あれだけ文字いっぱい漢字いっぱいの作品に比べれば、一段組みで書かれている本書程度の描写など児戯に等しいでしょう。あるいは、古野まほろのような癖のあるルビを用いた作家の作品も講談社ノベルスにはあります(笑)。『日本語の擁護と顕揚』といった主張自体は分かりますし首肯できますが、作品のテーマとしては消化不良なため瞬一郎の台詞がどうにもお説教臭く聞こえてしまい、あまり面白くないのにも困ってしまいます。
 ミステリとして平凡なのも問題です。いや、普通なら文句を付けるところではないのかもしれません。トリックはそれなりに独創的で、なおかつ伏線はきちんと貼られていますし、それでいて稚拙ながら目くらましも施されています。実に基本に忠実なミステリです。ですが、本書では、シャガールの作品の芸術的価値についての論議を切っ掛けとした芸術論が展開されます。曰く、芸術における厳格な規矩を守ることに価値を見い出すのか。それとも、そうした約束事が捨てられてしまった現代の芸術においては、自由という名の労苦にいかに立ち向かったかに価値を見い出すのか。それは本格ミステリにも共通の問題なわけですが、そこまで言っておきながら、本書ではミステリ的な冒険が何らなされていません。自分でハードルを上げておきながら飛ばないのです。これはストレスです。
 ランス大聖堂とシャガールのステンドグラスについて日本語で書かれた文献としては自信作とのことですので、そうした方面に興味のある方には強くオススメできますが、万が一本書が初めての深水作品だという方がおられましたら、ぜひ他の作品を読んでみて欲しいです(苦笑)。
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