『11文字の殺人』(東野圭吾/光文社文庫)

11文字の殺人 (光文社文庫)

11文字の殺人 (光文社文庫)

「現実の事件は白黒をはっきりさせられない部分が多い。正と悪の境界が曖昧なんだ。だから問題提起にはなるけれど、しっくりとした結論は期待できない。常に何か大きなものの一部なわけだよ。その点小説は完成している。そのものがひとつの構築物だ。そして推理小説というのは、その構築に一番工夫を凝らしやすい分野じゃないのかな」
(本書p15〜16より)

 確かに、推理小説・ミステリの面白さとして、探偵によって悪が暴かれ裁かれるという勧善懲悪的なカタルシスがあるでしょう。時にアクロバティックに展開するロジック、時にこねくり回される屁理屈といった二転三転する論理の面白さも、その背景には悪を弾劾し正義を助けるための裏づけとして論理が機能しているからだと思います。
 ところが、本書は一味違います。作中で起きる連続殺人。恋人を殺された推理小説作家の”あたし”は、過去に起きた海難事故が事件の鍵を握っていると睨み、その真相を突き止めようとします。海難事故によって無人島に遭難した事件関係者が、無人島から脱出した後に次々と殺されていくいくという展開はクリスティの『そして誰もいなくなった』のパロディとして面白いですし、他にもクリスティの某有名作を彷彿とさせる展開も待っています。殺人事件の真犯人もそれなりに意外ですし、真っ当なミステリとしてもそこそこ楽しめます。
 しかしながら、問題はここからです。殺人事件の発端となった海難事故の真相。それは、極めて人工的に作られた正と悪の曖昧な空間です。
 というわけで私はとても面白く本書を読んだのですが、にもかかわらず、実はこの作品、作者が「下手くそさ加減の極地」*1と自己評価を下している作品だったりします。それは、おそらく作品のテーマにあまりにも露骨な元ネタがあるからです。

 これは会社にいたときに”中堅社員教育”というセミナーのようなものに参加して、みんなでいくつかのテーマについて議論させられたときのことがベースになっています。そのテーマの中に、事故か何かで転覆し、漂流した船の乗客たちの話があったんですよ。恋人を見失った女性が「恋人は沖にある小さな島に辿りついているかもしれないから、自分を島まで連れていってくれ」と頼むわけです。水夫は危険だから嫌だ、と言うんだけど彼女は引かない。そこで水夫は「しょうがない、連れていってやってもいいけど、そのかわり一晩相手をしろ」と条件を出す。悩んだ彼女は同じ船に乗っていた男性に相談するんだけど、「自分が信じた道をいくのが一番正解だ」と言われてしまう。結局、彼女は水夫に一晩身を委ねて島まで連れていってもらうことにして、そこで恋人を見つけ、無事に一緒に帰ってくる。ところが助かった恋人の友達が、実は……とばらしてしまって、怒った彼が彼女を振ってしまう、という話だったんですよ。そこからこの話の中で共感できる人間、嫌いな人間の順位をつけて、それについてみんなで話し合ったわけです。
 そのときに僕は(中略)と力説したんですが、全く受け入れられずに悔しい思いをしました。その悔しい思いをぶつけるために書いたのがこの『11文字の殺人』です(笑)。
(『野性時代』2006年2月号「東野圭吾が語る全作品解説」p38より)

 と作者自身が述べているように、本書では無人島の問題がひとつの物語として小説内に取り込まれています。カルネアデスの板カルネアデスの板 - Wikipedia)をより複雑化したかの如き状況設定。その真相に接したとき、果たして主人公は何を思い、どのように受け止めるのか。問題設定はあまりに人工的過ぎますし、その設定にしても結局は社員教育セミナーの受け売りという発想の独創性の希薄さが、作者をして作品の評価をどん底に至らしめている所以なのでしょう。
 しかしながら、与えられたテーマから受ける正と悪の判断の難しさが、読者に居心地の悪さを覚えさせると同時に読後の印象としても強く残るものなのは確かだと思います。それがおそらくは評判に評判を呼び、作者自身の評価の低さにもかかわらず本書が意外と売れている理由なのでしょうね。
【参考】悪いのは誰? - ある無人島漂流の物語 - (旧姓)タケルンバ卿日記避難所

野性時代 vol.27 (2006 2) (27) KADOKAWA文芸MOOK 27

野性時代 vol.27 (2006 2) (27) KADOKAWA文芸MOOK 27

*1:野性時代』2006年2月号「東野圭吾が語る全作品解説」p38より。