『猫を抱いて象と泳ぐ』(小川洋子/文藝春秋)

猫を抱いて象と泳ぐ

猫を抱いて象と泳ぐ

 『羽生―「最善手」を見つけ出す思考法』保坂和志/光文社知恵の森文庫)では、「最善手」をキーワードに羽生の将棋観や思考プロセスを辿ることで「人が考える」という行為の本質的な面白さを見つけ出そうとしています。その中の一章に羽生が書く自戦記の独自性に注目した章があります。

 まず、羽生の語り口には他の棋士の自戦記のような実況中継の感じがない。そして、抜粋部分だけでは羽生が先手なのか後手なのか判然としないようなところがある(それはほかの棋士が「私」と書くところを、羽生の場合ほとんど「先手」「後手」と書いているからという理由だけではない)。つまり、――、
(1)実況中継でないこと
(2)本人が先手か後手かわかりにくいこと
 この二点が、自戦記に限らず、羽生が対局しているときの心のあり方なのではないだろうか。少なくともそう仮定した方が、羽生の将棋を理解しやすい。
(中略)
 羽生の関心は、どう指せば「私」が良くなるかではなくて、この局面で両者が最善をつくすとどうなるかということにある。それが自戦記を「私」「××八段」と書かず「先手」「後手」と書いている理由で、結果として自戦記の語り手が「先手」なのか「後手」なのかわかりにくくなる。
 羽生は対局中、読みの大海に漂っているのだと思う。
 自分がいて読みがあるのではない。膨大に広がる読みがあって、そこに自分と対局相手がいる、読みは自然界の法則がそうであるように、決して自分にだけ都合よくはならない。もし、読みの中で形勢が一方に傾いたら、それは自分の読みが充分でないからだと考える。羽生はただひらすら展開を読み続けているのだと思う。
(『羽生―「最善手」を見つけ出す思考法』p76,81より)

 こうした傾向は、程度の差こそあれ棋士全般が共通して有している感覚だと思います。NHKテレビ将棋トーナメントなどで解説者である棋士が、どちらが有利でどちらが不利かという形勢を判断する場合には、対戦している棋士の名前でなく「先手」「後手」といった手番、あるいは「居飛車」「振り飛車」という戦形を主語にして解説されることが多いです。形勢の良し悪し、手の善悪を判断するのに人間性など不要です。将棋は純粋なのです。しかしながら、そうして生まれた棋譜は、指し手よりも長生きすることができますし、刻まれている手にはその指し手の個性が強く刻まれています。

 ”手記”というのは、普通、一人称の文章である。そして、一人称の文章の特徴は、”私”が主人公であること。”私””私”って、”私”が主張している文章。
 これは。かなりの確率で”下品”になる。
 世の中は、”私”以外のものが一杯あって、いや、”私”以外のものが多数派であって、それで出来ているものなのだ。だから、”私”のみを主張する、そんな文章は、余程気をつけて書いていても、細心の注意を払っていても、極めて自己中心的なものになりがちであり……ということは、非常に、簡単に、下品に、なりがちなのだ。
『ハッピー・バースディ』新井素子/角川文庫)p300より)

 棋譜には手記以上に棋士の思いが嘘偽り無く込められています。しかしながら、そこには「私」がありません。個を捨てて盤上の大海に身を投げ打つことで生み出される駒の奇跡。それを記した棋譜の美しさ。その美しさを小説で表現することが本書では試みられています。

 「棋譜が持っている芸術性。それがこの作品の原点です。私が不思議に思うのは、棋譜にその人のすべてが隠しようもなくあらわれること。人間のすべてが、あるいは宇宙のすべてが棋譜に出る。不思議だ、神秘的だなと思う」
http://mainichi.jp/enta/art/news/20090119ddm014070014000c.htmlより)

 本書は三人称で描かれていますが、作中での主人公の表記は、「少年」であり「彼」であり「リトル・アリョーヒン」です。他に登場する人物もその本名が記されることはありません。あたかもチェスの駒のような呼ばれ方がなされるのみです。ポーンを抱き、ビショップに執着する主人公。ビショップは斜めにだけ動ける駒です。前後左右には決して動くことのできないその駒は、64枡のうちの半分の枡しか移動ことはできません。少年は他の世界があるのを知らないわけではありません。でも彼はチェスの番下で生きることを選びました。限られた世界への執着が、余人には思いもよらない駒の軌跡を描き出します。
 チェスと将棋の違いはいくつかありますが、将棋に比べるとチェスの駒はどれも強いものばかりです。それだけに、序盤の駒組み(オープニング)がとても大事です。また、一番大きな違いですが、チェスの場合には取った駒を使うことができません。そのため、チェスではゲームが進めば進むほどに盤上から駒が消えていき、それに比例して盤上から可能性も消えていきます。なので、エンドゲームでは静寂が盤上を支配することになります。そんなチェスというゲームの性質が、本書ではそのまま物語として描かれています。言葉の海の中から言葉を探すように。
 同じくチェスを題材とした小説である『ディフェンス』ウラジミール・ナボコフ河出書房新社)と読み比べてみるとなかなか趣き深いものがありますので、そんな読み方もオススメです。