『くらやみの速さはどれくらい』(エリザベス・ムーン/ハヤカワ文庫)

もっと光を
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ - Wikipedia

 自閉症が治療可能になった近未来。ルウは自閉症患者最後の世代ですが、特殊なトレーニングによってその症状は著しく緩和されています。その結果、ルウの状態は、自閉症というよりはアスペルガーのそれに近いものになっていて、健常者にはできない特殊な技術によって職に就いて生計を立てています。いずれにしても本書で描かれているのは、自閉症者と社会との関係、あるいは自閉症者と健常者との人間関係といったノーマライゼーションの問題です。
 新しい上司によって示された会社の方針。これまでにない治療法による自閉症の根治の試み。日本国憲法にもありますが、理念として、人はみな健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有しています。しかしながら、その理念は現実的な問題(平たく言えば、お金の問題)の前には妥協せざるを得ません。私企業におけるコストダウンという形で現実が突きつけられることによって、そうした理念の本質が問われます。キレイ事だけでは生きていけませんが、キレイ事なしで生きていける程に世の中は単純ではありません。
 本書では、現実よりも少し進んだ近未来を描くことで、現代社会の光がまだ照らされていない、これから迎えることになるかもしれない少し先の暗闇が描かれています。
 私が言いたいのは、暗闇の速度は光の速度と同じくらい興味深いものだということで、ことによると暗闇の速度のほうが早いのかもしれないし、誰かそのことを発見するかもしれないということだ。(本書p13より)
 タイトルにもなっている、ルウが常に抱いている疑問。これはルウが感じている内面と外界との認識の差を表現したものでもあります。光よりも先に暗闇があるのなら、光よりも暗闇の方が速いといえるのではないか? 「アキレスと亀」で知られるゼノンのパラドックス(参考:ゼノンのパラドックス - Wikipedia)のような問答ですが、実際、ルウは埋めようのない健常者とのギャップというものを感じています。「アキレスと亀」は時間の要素を錯覚させることによって生みだされるパラドックスですが、ルウにとっては現実です。
 本書は基本的にはルウの一人称視点で語られています。その細やかな視点による描写は、自己を外界と可能な限り同調を図り障害者扱いを受けないようにしようという、ルウの内面に染み付いた自己抑制能力と防衛本能によるものです。なので、その描写から受ける印象を単純に”優しさ”と捉えることには抵抗がありますが、その反対に”冷たさ”と捉えることにはもっと抵抗があります。
 ルウはパターンを探すのが得意です。その能力は製薬会社での仕事として生かされていますし、趣味のフェンシングでも発揮されています。パターン認識能力は彼と外界との接点を見い出すためにも用いられています。会社から事実上強要されることになる自閉症治療の実験は、彼と外界のパターンにどのような影響をもたらすことになるのか? ルウ自身が認識しているルウというパターンは、彼が自閉症者であることとどれだけ結び付いているのか? ルウが自閉症者でなくなったら彼は彼でなくなるのか? パターンは維持するためのものなのか? 変化させるものなのか? それとも、させられるものなのか? 思えば、読書という行為そのものが、自らの思考パターンと本に示されている思考パターンとを照らし合わせる作業です。だからこそ、ルウが直面した問題についても読者はまるで我が事であるかのように読んでしまうことになるでしょう。実際、600ページ超というボリュームであるにもかかわらず、私はページをめくる手を止めることができませんでした(ただし、最後の章に目を通すのに覚悟が必要だったことは告白しておきます)。
 SF作品ではありますが、一人でも多くの方に読んで欲しいと願ってやまない一冊です。
【参考】http://ameblo.jp/penguinsnight/entry-10184534886.html