『駅神』(図子慧/ハヤカワ文庫)

駅神 (ハヤカワ文庫 JA ス 2-2)

駅神 (ハヤカワ文庫 JA ス 2-2)

 高砂駅四番線のホームに気まぐれに現れては易を立てる謎の老人・ヨンバンセン。彼の易は良く当たるという評判ではあるものの、その易の意味がよく分からない。果たして易とはいったい何なのか?
 悩みを持った人々がヨンバンセンに占ってもらい、そこで出してもらった易の意味を、主人公の章平と相談者と四人の専門家が解き明かすという易学ミステリです。
 ミステリではあるものの、謎と解決とが易学によって論理的に結び付けられて解決に至る、というようなタイプのものではありません。作中では、易とは哲学だと説明されています。つまりは世界のあり方と考え方を示すためのものなのですが、それは決して未来を予言したり変えたりするようなものではありません。いくら占いを立てても、物事にはなるようにしかならないことがたくさんあります。
 では、本書において易がどのような役割を担っているかいえば、それは悩みを抱えている人の視野を広げて、違った視点から事件を考えることを可能にする点にあります。易によって導き出される六十四掛。そうした易の仕組み自体は、相談者が抱える悩み事とは直接の関係はないものです。正直に言ってしまえばよく分からないものなのですが(笑)、だからこそ先入観なしに悩み事と向き合うことができます。そんな陰と陽・爻・掛といった易の要素と、相談者の抱える悩み事の細かい事情とがさまざまに結び付けられては組み替えられていくことによって、それまでとは違った物事への対処法や心構えが見えてくる。それが易です。
 ミステリでは、ときに自由な発想とそれを結論へと発展させていくだけの推理力が必要とされますけれど、そうした思考方法は実際には物語の中の探偵役にしかできない特殊なものです。そんな特殊な思考方法を、天然ではなく意識的に行なうための手法として易は機能しています。例えれば、コリン・デクスターのモース警部のような思考方法を意識的に行なうための手段が易だといえるでしょうか。
 本書は、小説でありながらも易学への入門書みたいな側面もあって、易学というものを正しく理解してもらおうという配慮がそこかしこに垣間見えます。本書は4つの短編による連作集ですが、第3話が少々変わっています。胡蝶の夢のごとき導入によって始まる夢物語では、易学の基礎である八卦が擬人化されることで物語の世界観が説明されています。
 そんなファンタジーな面もある一方で、作中での易の役割はとても現実的です。なので、主人公の章平が相談を持ちかけて易を占ってもらってもどうにもできないことがあります。易を通すことによって、そんな若者の全能感と無能感の間での揺れが表現されているのが本書の面白いところだと思います。
 ちなみに、易学を題材にした小説の嚆矢として『高い城の男』(P・K・ディック)があります。こちらはSFであるがゆえに易というものが少々仰々しく扱われ過ぎではありますが、易と現実と物語の関係を考える上で非常に興味深いものになっています。また、『陰陽師式神を使わない』(藤原京/SD文庫)というのもありますが、こちらは易経の入門書に近くて小説と呼ぶのが躊躇われるようなものになっちゃってます*1。易学への興味でこれを読むくらいなら普通に易学の専門書を読んだ方がいいと思いますが(苦笑)、一応ご参考まで。
高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

陰陽師は式神を使わない (集英社スーパーダッシュ文庫)

陰陽師は式神を使わない (集英社スーパーダッシュ文庫)

*1:作中では『高い城の男』の易学的な誤りが指摘されたりしています(笑)。