『ボディ・アンド・ソウル』(古川日出男/河出文庫)

ボディ・アンド・ソウル (河出文庫)

ボディ・アンド・ソウル (河出文庫)

 本書にはご飯を食べたりお酒を飲むシーンが頻出します。食べ物の一部は血肉となりますが、残りは人の体を通過していきます。そして、血肉となった部分も細胞の入れ替わりによってやがては失われていきます。物語も、一部は人の心の中に残りますが大部分は通過していきます。そして心となった部分もやがては失われていくことでしょう。だから読み続ける。だから書き続ける。
 生きていくだけなら食べ物なんて栄養さえあればよくて。でも、食べたいものを食べたいという気持ちもあって、そこにはつまり心の渇望があります。食べるという行為に『ボディ・アンド・ソウル』が仮託されてます。
 本書は、フルカワという作家を主人公としたメタ小説です。物語とは何か? 物語るのは誰か? なぜ物語るのか? 何が物語らせるのか? といったソウルの物語ですが、その一方でボディの部分も疎かにされてはいません。というより、むしろかなり力が入っています。魂が肉体から離れたとして、その肉体にも肉体の魂というものがあるのではないか? それが生きるということではないのか?
 どこまでが本当でどこまでが嘘なのかよく分からない私小説風のメタ小説。小説家と小説の中間地点すらも小説にすることで、”物語る”ということを物語ろうとしています。とはいっても、食べて飲んで編集さんとくっちゃべって街をぶらついて取材旅行に出て舞台を見て音楽を聴いて小説を書いて、という日常の描写がほとんどです。でもそれが事実だという保証はどこにもありません。チエという脳内妻(?)の視点の混入によって世界の虚構性が強調されていきます。でもそれは決して現実を崩壊させるための虚構ではありません。一つの物語世界を作り上げるための虚構です。楽譜になり得ない本なんてあり得ない。フルカワはそういいます。演奏されてこその物語。なればこそ、現実を演奏するための物語という一面も本書にはあります。現実と虚構の間で行なわれる永遠のリローデッド。それこそが無限の物語。
 奔放な語り。氾濫するアイデア。時折表れるアフォリズムのように強調された文章。それらの衝突によって、イメージやらインスピレーションやらノイズやらが生まれてきます。そうしたものと折り合いをつけるための作業として、私の場合ですとこの書評などがまさにそれに当たるわけですが、こんな風にメタに熱い物語に出会ってしまうと扱いに苦慮してしまうというのが本音です。それでも、結局はいつもどおりの書評に仕上げてしまうのが私自身の限界というかつまらないところなわけですが(笑)、でも、そのことに居心地の悪さを覚えてしまうということ自体、私が本書に当てられてしまった証なのだと思います。やれやれ(苦笑)。