大きな物語と小さな物語と連鎖式

 連作短編ミステリの中には、各短編が長編的なつながりを持っているものがありまして、そうした作品は連鎖式と呼ばれることがあります。

 “連鎖式”(中島河太郎氏による命名のようです)は物語を構成する手法の一つです。日下三蔵氏は、“一応は一話完結でありながら、少しずつストーリーに一貫性を持たせていき、全体を通して読むと長篇にもなっている、というかたちの連作”(山田風太郎『明治断頭台』(ちくま文庫)解説より引用)と説明していますが、より簡単にいえば“長編化する連作短編”ということです。この“連鎖式”という手法は、ミステリとしての仕掛けや趣向と結びついて、主に国内ミステリで特異的な発展を遂げています。
<連鎖式>――作品リストとささやかな考察(黄金の羊毛亭)より

 具体的な作品などについては上記リンク先のページを是非ご覧になってください。
 連作短編ミステリの中にも、連載漫画のように登場人物が時間の経過と共に成長していったりするものがありますが、そういうのは連鎖式とは呼び難いです。普通の連作短編と連鎖式との差はどこにあるのかと考えますと、各短編が伏線によって連結されていてその意味が結末によって明らかになるか否か、とか、各短編の独立具合如何にかかってくると思いますが、実は結構微妙だったりします(汗)*1
 そんな連鎖式の醍醐味は、短編という短い物語を読みながら、最後にはひとつの長編を読んだかのごときスケール感が味わえるという物語の遠近感・奥深さを堪能できる点にあるといえるでしょう。
 このような連鎖式における短編と長編の図式は、ポストモダン大きな物語の終焉」の先を行く物語として理解することができるのではないかと考えます。つまり、”小さな物語”=短編で、その連作から生まれてくる長編=”大きな物語”という図式です。

リオタールは『ポストモダンの条件』を著したが、彼によれば、「ポストモダンとは大きな物語の終焉」なのであった。
ヘーゲル的なイデオロギー闘争の歴史が終わる」と言ったコジェーヴの強い影響を受けた考え方である。例えばマルクス主義のような壮大なイデオロギーの体系(大きな物語)は終わり、高度情報化社会においてはメディアによる記号・象徴の大量消費が行われる、とされた。この考え方に沿えば、"ポストモダン"とは、民主主義と科学技術の発達による一つの帰結と言える、ということだった。
ポストモダン - Wikipediaより

 何を言ってるのかよく分かりませんが(汗)、それでも、確かに既存のイデオロギーの体系には、”大きな物語”としての力はなくなってしまったのかもしれません。でもそれは、決して”大きな物語”の需要がなくなったからではなくて、そうした既存のイデオロギー自体の力が弱まってしまったからではないでしょうか。であれば、新たな”大きな物語”を作り出すことで読者を開拓することはできるのではないでしょうか。そして、連鎖式という手法にはその可能性が大いに秘められていると思います。
 ミステリは論理の物語です。ゆえに、連鎖式によって生まれる長編物語もまた論理の物語です。なので、イデオロギー・思想性といったものとは必ずしも相性がいいとはいえないかもしれません*2。ただ、上記リンク先で紹介されている連鎖式の手法を代表する作家として加納朋子がいますが、その作風はいわゆる”日常の謎”としても知られています。この”日常の謎”と連鎖式はとても相性が良いもののように思います。
 殺人事件といったような大仰なものではなく、日常にあってもおかしくない不思議。そうした日常の積み重ねの中から現れてくる、日常を変える大きな物語。それは、”大きな物語”と称するにはあまりにも素朴なものかもしれませんが、日常という土台を踏まえた上での”大きな物語”には大量消費に耐え得るだけの力があるのではないでしょうか。
 などと、正直なところあまり考えが上手くまとまっていないものを記事として書いてしまいました。おそらくは同じ問題意識でまったく異なる方向性を持った考察を行なうこともできると思いますが、まあ、あまり気にしないことにしましょう。要は、「連鎖式の連作短編ミステリはすごく面白いよー」ということを言いたかっただけなのです(笑)。とはいえ、このような「大きな物語と小さな物語」と連鎖式との関連性について、何かご意見等ございましたら気軽にコメント等いただければ幸いです(ペコリ)。
【関連】大きな物語の消滅 -この分野は無知なのですが、ポスト・モダンについて- 哲学 | 教えて!goo

*1:黄金の羊毛亭さんの作品リストの中に挙がっていない作品として、ライトノベルですが在原竹広『ようこそ無目的室へ!』が該当すると思います。他にも思い当たる作品があったら随時追加していきたいです。

*2:もっとも、論理の基礎となる合理性といった考えからイデオロギーを導き出していくことは十分可能ではないかと私は思っています。