『ゼペットの娘たち』(三木遊泳/電撃文庫)

ゼペットの娘たち (電撃文庫)

ゼペットの娘たち (電撃文庫)

「お前‥‥人権ってコトバ知ってる? 知らねえだろうなあ‥‥」
「モラルと現実の界面で生まれた言葉ね 理念は判るけど見た事ないわ…」
(『攻殻機動隊』(士郎正宗講談社)p331より)

 ……何とも微妙な味わいの物語でした(苦笑)。とても読みやすい文体でつづられたストーリーは確かなリーダビリティがあります。それに、キャラの個性も立ってますしキャラ同士の会話もまた楽しいです。しかしながら、それらをすんなりと受け入れるのにはかなりの抵抗を覚えました。
 まず、主人公の少年サツキの職業は機鋼人形師です。作中ではゼペット鋼という特殊な金属を加工することで可能な技というようにファンタジー風味となっていますが、やってることはアンドロイド作りやホムンクルス作りと同じです。そうなりますと、メアリ・シェリ『フランケンシュタイン』でおなじみのフランケンシュタイン・コンプレックスが問題となってもよさそうなものですが、本書ではそうしたことが一顧だにされることなく全面的に受け入れられています。17歳という年齢以上に精神的に未熟で人形のことにしか興味のない(=変態)サツキによって作られ整備される人形たち。そんな人形たちが人格的に破綻していないのは端から見ていると奇蹟にしか思えませんし、当の本人もその辺の問題にはまるで無頓着です。人間のことをほとんど知らないのに人間のための精巧な人形を技術的にも倫理的にも何のためらいもなく作れてしまうのが、読んでてどうにも居心地が悪かったです。
 それだけではありません。この世界では、”それなりの性能”を持った人形は、保証人の署名と登録料を払うことで人権が付与されます。そうした人権登録の制度があるのですが、ここでいう人権とは果たしてどのような意味で用いられているのでしょうか。日本国憲法でいうところの人権とは、人である以上生来的に有する権利のことです。それはあくまでも理念の問題に過ぎなくて、現実に保障されているか否かはまた別の問題ではありますし他にも様々な問題がありますが、理念としては、人である以上誰にでも認められる権利です。では、本書の世界ではどうなのでしょう。すべての人に人権が保障された上で、人形にも人権が認められているのでしょうか。その割には、この世界では、女性であるということはそれなりに不利を強いられるもののようです。また、人権登録に必要な”それなりの性能”というの問題です。権利を得るのに資格が必要であるのなら、それは人権という概念と根本的に矛盾します。人でありながら人権が保障されないような存在を肯定するのでしょうか? 人とはいったい何なのでしょうか?
 ゼペット鋼の名が示すように、本書はピノキオ*1をモチーフにした物語です。そんな人間になりたいというピノキオの思いは、作中の人物(人形含む)には今のところ直接的には投影されていないみたいです。ただ、サツキによって作られたばかりのハリケーンは、可愛い愛玩用の人形ですが、サツキのことが大好きでサツキのことが知りたくてたまりません。サツキのことを知る、ということは人間について知るということに他なりませんし、そこから、自分とはいったい何なのかという自由意志・決定論の問題が、未発達で角のないふんわりとしたハリケーンの人格を通していずれは語られることになるのだと思います(続きが出たらの話ですが)。
 というわけで、確かに一見するとイラストどおりのほのぼのストーリーのようではあるのですが、その裏には疑問点と問題点がありまくりのように思います。そうした問題は自覚のなさによって生み出されたものなのか、それとも作者の意図によるものなのかは続編が出ないことには何ともいいようがありません。果たしてエドマンド・クーパーの『アンドロイド』の先を行くような物語になるのかどうかという興味が個人的には尽きなくて、そうした観点からちょっとだけ勝手に注目しています(笑)。

*1:ピノキオを作ったのはゼペットじいさんです。