『落下する緑―永見緋太郎の事件簿』(田中啓文/創元推理文庫)
- 作者: 田中啓文
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 2008/07
- メディア: 文庫
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美を定義しようとするなら、見たとたんに確実に美しいと判断でき、その判断が撤回されることがないのが美だ、と定義しなければならない。いいかえれば、まず美しいという選択があり、それがなされたあとに、なぜそれを選択したのかあれこれ考えることになるが、それで選択に動揺や変化がもらされることはない。思考へとむかうすべての人はつねに美を求めているが、どんなに強く望んでも、真理がそのまま美となることはない。
(『芸術の体系』(アラン/光文社古典新訳文庫)p15より)
ジャズを主題とした本格ミステリの連作短編集です。一見すると異色の組み合わせと思われるかもしれませんが、実は意外とマッチしています。作中でジャズと抽象画の共通点について、「周到に計算された部分と、即興の部分とかうまく溶けあっていますね。それに、表現の過程で熟練した技術が用いられている。何の制約もない、自由な芸術だと思います。ジャズですね」(本書p14)と述べられています。これは本格ミステリについても相通じるものがあります。パズラーとしての計算と物語としての魅力。それらを両立させようとする試みにはジャズの精神と近いものがあると思います(もっとも、何の制約もない自由な芸術、とはいえませんが……)。
本格ミステリとは推理と論理の物語です。しかしながら、そんなものに頼らずとも、美は美として存在しています。本格ミステリという装置が、届かぬ美への渇望というものを表現するのに一役買っているのは、果たして喜ぶべきなのか悲しむべきなのか。私には何とも言えませんが、本来なら耳で聞くことでしか味わうことのできないジャズの魅力をここまで伝えてくれているのですし、何よりもとても面白い物語に仕上がっているのですから、ここは素直に喜んでおくことにしましょう(笑)。
本書収録の短編のタイトルにはすべて色が付けられています。文字を媒体として色覚にまで訴えることで聴覚を疼かせようとする非常に憎らしい試みですね。
落下する緑
表題作にして著者のデビュー短編でもあります。氷見緋太郎という天才肌のテナーサックス奏者にして物語の探偵役を務める独特なキャラクタの魅力が最初から存分に発揮されています。ジャズ奏者と抽象画との出会いの中に、新しいものを作り続けていくことの苦悩が嫌というほどに濃縮されています。
反転する黒
ピアノの鍵盤は白と黒です。今は1オクターブの7つの幹音が白鍵で、その間の5つの半音が黒鍵となっていますが、18世紀のピアノは白鍵と黒鍵とが反対でした。変えようのない時の流れ。それが白と黒の反転です。
本格ミステリではワトソン役よりも探偵役の方が強いというか偉そうなのが一般的です。ところが、本書の場合では、確かに氷見は探偵役として有能ですしテナーサックス奏者としても天才ではありますが、それでも本書の語り手でありワトソン役でもあるバンドリーダー・唐島英治には頭が上がりません。そんな微妙な関係が端的に表れているのも本作の面白いところです。
遊泳する青
故人となった小説家の原稿とジャズ奏者との出会い。これまでのお話とネタ的に近いものがあるので、続けて読んでるとばれやすいですよね(笑)。即興の芸術であるジャズと絵画や小説とではやはり違いがあります。本格ミステリにしてジャズ小説という本書だからこそ、こうした問題が取り扱いやすいのかもしれませんね。
挑発する赤
「どうしてあんなやつが『有名ジャズ評論家』になれたんでしょうか」
「レコード会社や雑誌が、そのとき『こう書いてほしい』という内容の原稿を無節操に書くからだろ」
(本書p196より)
本書収録作の白眉。多くは語れませんが、本書のトリックが狡知ではなく思いやりによって構築されていて、それに無粋な輩が結果として引っかかる(?)というのが非常に秀逸です。
砕けちる褐色
セッションをすれば犯人が分かるという謎解きは、探偵役がジャズ奏者であることの利点が最大限に発揮されたものですし、やはり一度はやって欲しかったシチュエーションではあります(笑)。楽器を媒介として人間性と芸術性との関係について考えさせられる佳品です。
各短編ごとに、お話の中で取り上げられている楽器をメインとした著者オススメのジャズCD・レコードの紹介も併せて収録されています。”日常の謎”連作集ではありますが、ジャズの魅力を存分に伝えてくれる小説でもありますので、興味のある方はぜひ。
【関連】『辛い飴―永見緋太郎の事件簿』(田中啓文/創元推理文庫) - 三軒茶屋 別館
- 作者: アラン,長谷川宏
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2008/01/10
- メディア: 文庫
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