『取調室―静かなる死闘』(笹沢佐保/光文社文庫)

取調室 静かなる死闘―笹沢左保コレクション (光文社文庫)

取調室 静かなる死闘―笹沢左保コレクション (光文社文庫)

 個人捜査から組織捜査へ。事件の捜査において特定の個人を主人公とすることができない現実の警察の捜査にあって、警察と被疑者の接点としての取調室を舞台にした閃き。それだけで本書は傑作であることが約束されたも同然ですし、そうした期待に違わぬものになっています。テレビドラマ『火曜サスペンス劇場』の人気シリーズ*1の原作としてご存知の方も多いかもしれませんね。

「やっぱり推理小説が、時代から遅れているんでしょう。小説家がいまの警察を、知らなすぎるんです。被疑者を割り出して逮捕して犯行を自供させれば、それで勝負がついたというのが推理小説の終わり方でしょう。しかし、いまの時代はそれで事件解決、ということにはならないんですよ。公判で、引っくり返されるかもしれません。したがって、被疑者から犯行を裏付ける物証とともに自供を引き出す、という取調べの段階での葛藤が最重要視されて、完璧な解決へ持ち込まれるまでの描写がなければ推理小説としておもしろくないですね」
(本書p130より)

 一番怪しい容疑者には確かにアリバイがある。しかしながら、いくつもの状況証拠は完全にある人物の犯行であることを示している。他に容疑をかけられる人物はいない。だとすれば、ほとんどのミステリであれば事件は解決したも同然です。アリバイは確かに謎ではあります。しかしながら、場合によってはそれがあること自体が犯人であることの証である、といったメタな理解で処理されちゃうことだってあったりします(笑)。
 しかし、もちろん現実にはそんなわけにはいきません。いくら状況証拠があったとしても、直接的な証拠、物証がなければなりません。他に怪しい人物がいないからといっても、いざ裁判となれば疑わしきは被告人の利益にという「推定無罪の原則」が働いてきます。状況証拠にも消去法にもよらない確信を得るための作業。さらには勾留期限というタイムリミットまであります。それが取調室という密室での被疑者と取調官との戦いです。
 曖昧な答えではなく完全なる解答を求めての作業。それは極めて理知的なものではありますが、その反面、被疑者との心理戦といった人間同士の心理戦の要素も多分に含んでいます。取調官である水木警部補の背後には、何といっても警察組織という心強い存在があります。組織による万全の体制によって集められた証拠や証言といった情報は、この心理戦を戦う上で圧倒的なアドバンテージとして機能します。では被疑者の側には何の武器もないのかといえば、そんなことはありません。捜査段階では被疑者はどうしたって被疑者ですから、人権はすべからく保護されなければなりませんし、それを無視して取調べを行ったとしても違法捜査の烙印を押されるだけです。また、被疑者には黙秘権もあります。虚言は真実によって覆すことができますが、沈黙からは何も生まれてきません。そこに取調べの難しさがあります。
 事実上確定している犯人と探偵役との戦いという意味ではいわゆる倒叙ミステリと共通する部分もありますが、被疑者ではなく取調官からの視点が中心となっているところにそれとは違った面白さや緊張感があります。多くのミステリファンに読んで欲しい一冊です。



 ちなみに。

ドラマの取調べで何人かの刑事が被疑者を取り囲んで、怒鳴ったり机を叩いたりして供述を迫りますが、現実となるとあんなものは通用しません。被疑者が自白を強要されたと主張すれば、公判で供述調書は証拠として採用されなくなります。
(本書p91より)

 裁判員制度が実施が目前まで迫っている中にあって、取調べの可視化というのが課題になっています。強要された自白には証拠能力も信頼性もありません。もっとも、現実の裁判でそれがどれだけ守られているのかは疑問ではありますが、理念としては自白は被疑者の任意によるものではなりません。そうした任意性を確認するために可視化が導入されるとしたら、本書で行われているような取調べの方法や技術は益々重要なものとなっていくでしょう。そうした観点からも本書は価値あるものだと思います。