『ボルヘスと不死のオランウータン』(L・F・ヴェリッシモ/扶桑社ミステリー)

ボルヘスと不死のオランウータン (扶桑社ミステリー ウ 31-1)

ボルヘスと不死のオランウータン (扶桑社ミステリー ウ 31-1)

「でも、まだ何の結論も出てませんよ!」私は異を唱えた。
「なおいい」とあなた。「もっと話す口実になる」
(本書p95より)

 衒学趣味うぜー。いや、そういうのが読みたくて手に取ったんですけどね(笑)。
 アルゼンチンで開催されることになったE・A・ポーの研究総会に参加することになった「私」は、そこで念願だったボルヘスとの対面を果たす。だが、その総会は波乱含みのものであり、ついには論争の種をまいていたドイツ人が密室状況下で何者かによって殺害されるという事件が発生する。そして、その死体は奇妙な文字をかたどっているようにも見えるものであった。不可解な殺人事件にボルヘス安楽椅子探偵として推理を展開する……といった物語です。
 題名やあらすじ、設定などからもお分かりの通り、ポーやボルヘスについての薀蓄が披露されるのは当たり前で、さらにはクトゥルー神話カバラといった方向にまで話が及びます。そうした発想の飛躍は単なる無駄知識の羅列に過ぎないのか、それとも真相をつかむ糸口になっているのか。というのはほとんど冗談で、殺人事件の捜査自体は犯罪学者であるクエルボという人物が一人でやっています。肝心の「私」とボルヘスは事件を出汁にして文学論議を繰り広げているだけ。……かどうかは読者のご想像にお任せします。いや、何を言ってもネタバレになってしまいそうなので(苦笑)。
 薀蓄満載ではありますが、ページ数自体は少ない(解説込みで187ページ)ので、読了するのにストレスを感じることもなくあっという間に読み終わりました。ボルヘスの作品をもっと読んでたらいろいろと楽しめるのかなぁ、とは思いましたが、物語自体は本書単独できちんと完結していますので予習の必要はないです(むしろ事前に読んでおくのなら、ボルヘスではなくポーの有名作品を確実に押さえておかれることをオススメしたいです*1)。
 冒頭の語り手である「私」の宣言。客観的な視点からの記述のようではありますが、ボルヘスに対するときには「あなた」と直接的に語りかけるという独特の語りが用いられています。それは、「私」がボルヘスに対して抱く尊敬と感傷的な気持ちとがそうさせている、ということでひとまずは理解できます。しかし、まあ、これも興味がおありでしたら実際に読んでみて下さい、という他に言い様がありません。
 ミステリにおける語り手について考えるときによく挙げられる問題として、クレタ人のパラドクス(参考:Wikipedia)というのがあります。自己言及のパラドクス。作中で幾度も出てくる鏡の比喩。ミステリである以上、真相を最後まで隠しとおすための陥穽が用意されているのが常です。信頼できない語り手が真実を述べている場合もあれば、信頼できる語り手が虚偽の事実を述べている場合もあります。何が真実で何が虚偽なのかはときに相対的だったりします。読者はいったい何をもって真実を見定めるべきなのか。ボルヘスが探偵役であるというだけで一種のメタ・ミステリであることは確かですが、そこにミステリとしてのしっかりした仕事がなされています。衒学ミステリという触れ込みではありますが、技巧と与太話が楽しい佳品として、むしろ気軽に読んで欲しい一品です。

*1:既読の方ならお分かりでしょうが、他にも読んでおいて欲しい某有名古典ミステリがあります。ただ、それを言っちゃうと露骨なネタバレになってしまうのが辛いところです(笑)。