『鑢』(フィリップ・マクドナルド/創元推理文庫)

鑢―名探偵ゲスリン登場 (創元推理文庫 (171‐2))

鑢―名探偵ゲスリン登場 (創元推理文庫 (171‐2))

 本書邦訳のタイトル(原題:THE RASP)”鑢”は”やすり”と読みます。作中で用いられる凶器のことですが、原題である鑢の英語(RASP)には動詞として”傷つける、いらいらさせる”といった意味もあります。実に意味深なタイトルだと思います。
 本書で発生する殺人事件について重要な証拠とされたのが、凶器である鑢についていた容疑者の指紋です。警察はこの指紋を決定的な証拠として容疑者逮捕に踏み切りますが、その一方、本書の探偵役であるゲスリンはこの指紋について苦悩することになります。

「きょうちょっとばかり動きまわった結果、答えが見つかるどころか、別の問題に突き当たってしまったんです。問題は――あることが紛れもなく本当になされたものなのか、それとも、本当になされたかのように見せかけるためになされたのか、それとも、真実らしからぬように見せかけるためになされたのか? 目下のところ、皆目検討がつかんのですよ」
(本書p137〜138より)

 これはミステリヲタの方であればピンとくるものがあると思うのですが、いわゆる「後期クイーン問題」と呼ばれるものと同じ問題意識に立ったものといえます。後期クイーン問題とは何か? については私には詳しいことは分からないのですが(汗)、法月綸太郎が1995年に発表した『初期クイーン論』(法月綸太郎『複雑な殺人芸術』収録)の中での次のような指摘がそもそもの発端だとされています(多分)。

クイーンの文脈においては、証拠の真偽性の判断が階梯化の契機になっている。しかし、『ギリシア棺の謎』のようなメタ犯人――ここではさしあたって、偽の犯人を指名する偽の証拠を作り出す犯人、と定義しておく――の出現は、「本格推理小説」のスタティックな構造をあやうくするものである。メタ犯人による証拠の偽造を容認するなら、メタ犯人を指名するメタ証拠をメタ・メタ犯人が事件の背後に存在する可能性をも否定できなくなる。これは「作中作」のテクニックと同様、いくらでも拡張しうるが、その結果は単調な同じ手続きのくりかえしにすぎず、ある限度を超えれば、煩わしいだけのものになる。こうしたメタレベルの無限階梯化を切断するためには、別の証拠ないし推論が必要だが、その証拠ないし推論の真偽を同じ系なかで判断することはできない。ということは、この時点で再び「作者」の恣意性が出現し、しかもそれを避ける方法はないのである。
(『複雑な殺人芸術』所収「初期クイーン論」p100より)

 こうした”偽の証拠(手掛かり)”についての問題意識が笠井潔などによって後期クイーン問題という論点として共有されながら様々に発展してきたのだと思います。
 で、本書はこの偽の証拠問題に真っ向から立ち向かった作品だといえます。本書では、探偵が自身の直感や偏見というものを度々自覚しては口にします。それというのも、偽の証拠を前にしたとき探偵自身にはその真偽についての論理・客観的な判断がつきかねることを意識せざるを得ず、その結果、作者の恣意性というものを探偵の口を借りて白状せざるを得なかったのだと考えられます。
 本書は1924年に刊行されているのですが、前年の1923年に発表されているヴァン・ダインの二十則のなかのひとつ、3.不必要なラブロマンスを付け加えて知的な物語の展開を混乱させてはいけない。ミステリーの課題は、あくまで犯人を正義の庭に引き出す事であり、恋に悩む男女を結婚の祭壇に導くことではない。を堂々と破っています。すなわち、探偵であるゲスリンは一人の女性と出会うことによって苦悩しますし、それによって事件について予断(偏見)を持つことにもなります。なぜそのようなことがなされたのかといえば、本書の性質上、探偵役=神という方程式は成り立ち得なかったからだと推察されます。何でもお見通しのはずの神が偏見を持ち真偽の判断に迷うなどあってはならないからです。探偵役を神の座から引きずり下ろすことで人間性を持たせ、かつ、偏見を抱かせるために、作者は探偵に恋愛というテーマを意図的に与えたのだと思います。
 鑢についた指紋というひとつの物的証拠を前提としながら、警察とゲスリンとでは異なる推理と結論を導き出します。果たしてどちらが真実なのか? その決め手は何なのか? それは実際に読んでいただくよりほかありませんが、個人的にはとても興味深い解決方法でした(ありがちですけどね)。
 こうした状況は実際の刑事裁判でも起こる可能性があります。犯行に使われた凶器に容疑者(法律的には被告人)の指紋がついていた場合、検察官は裁判官と裁判員に対して被告人の有罪の決め手として間違いなく主張します。一方、弁護人は、その指紋は被告人を陥れるための偽の証拠だとして論陣を張ったとします。もちろん、ほとんどの場合、凶器に指紋がついていればそれが犯行を示す証拠であることには間違いありません。ですが、そうした”ほとんどの場合”といった推論を目の前で真理されている事件に直接に適用してしまって果たして良いものなのでしょうか。そこにためらいはないでしょうか。その事件の裁判員として判断を迫られることになったら苦悩せずにはいられないと思います。ひとつの証拠から得られる推理は必ずしも一様ではありません。検察官と弁護人の弁論がときにプレゼン合戦の様相を呈し、また、刑事訴訟法において補強法則が採用されているにもかかわらず被告人の自白が重要視される傾向がある背景には、裁判という場においても証拠の真偽を客観的に判断することの困難性がつきまとっているからではないでしょうか。本書で用いられている特筆すべき趣向として、終盤で開陳される推理過程を示した長大な原稿があります。探偵ゲスリンがミステリの中でも異例の丁寧さで真犯人を導き出すに至った論理的な考察を説明しているのですが、これもまた読者に対しての一種のプレゼンだといえるでしょう。
 正直、単純な読み物としての面白さはそれほどでもないと思いますが、ミステリ論的な問題意識を加味しながら読むとグッと味わい深いものになってきます。ミステリを理屈っぽく楽しみたい方にはぜひともオススメしたい一冊です。
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法月綸太郎ミステリー塾 海外編 複雑な殺人芸術

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