書評(感想)の定型化について

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 はてな村をさまよってたらこんな記事連をみつけたのでちょっと考えてみたくなりました。



 突然ですが本の紹介です。
 東野圭吾の短編集『超・殺人事件』に「超読書機械殺人事件」という短編が収録されています。
 主人公はミステリ小説の評論家です。好きな小説を読めて感想を述べてりゃいいんだから幸せな職業ですねなどと嫌味をいわれることもあるが、実際にやってみるとこれほど難しい仕事もないんじゃないかと思う。とにかく読まなければならない本が多すぎるのである。忙しくて本を読む暇がないとか体調が悪くて読めないとか好みの本がなくて読みたくないとか。
 そんな彼のもとにセールスマンがやってきて夢の道具を紹介してくれます。その名もショヒョックス。これさえあれば自動的に本の要約に感想や書評の出力を行ってくれるというのです。しかも今ならこの機械を無料で提供してくれるという。渡りに船とばかりに彼はさっそくショヒョックスを使って書評を書き上げます。そうして彼は順調に仕事をこなしていきましたが……というようなお話です。
 ここまでで起承転結(闇)*1の承に当たります。続きが気になる方にはぜひ実物を手に取ってくださいませ。書評とは何か? そもそも読書とは何なのか? いろいろなことを考えさせられる作品です。特にこの問題に興味のある方にはオススメです。
超・殺人事件―推理作家の苦悩 (新潮文庫)

超・殺人事件―推理作家の苦悩 (新潮文庫)



 というわけで、この問題については東野圭吾の上記短編を読んでいただければそれで十分なのですが(笑)、それだけだと未読の方にあまりにも意味不明なので自分の言葉でも少し語ってみることにします。
 書評(感想)の定型化(テンプレ化)自体が必ずしも悪いことだとは思いません。小説にはだいたいお約束というものがありますし、読者の読み方にも個性という名の偏りはどうしたって生じます。自分好みの小説のお約束をチェックしていけばテンプレめいたものは自然とできあがってくるのではないでしょうか。
 また、特に当サイトが書評のメインとしているミステリというジャンルにはフェアプレイという強固なお約束・ルールがあります。ストーリーにも、謎があって最後には解決されるという基本的な流れがあります。謎の核となるトリックについても類型化や分析が進んでいます。そうした点は作者も意識して書いてますから、読者としてもそこは読み取らないわけにはいきません。読みどころは読みどころとして素直に評価するのも大切なことだと思います。
 確かにテンプレに当てはめればそれなりの書評なり感想なりが感単に書けるでしょう。しかしながら、だからといってはじめからテンプレありきで読み進めてしまったら、果たしてそれは本当にその本を読んだことになるのでしょうか。表面的な理解にとどまることになりはしないでしょうか。そこに新しい発見はあるのでしょうか。テンプレからはみ出している価値観を切り落としてしまうことになりはしないでしょうか。そうした読みによって生み出された書評や感想に果たしてオリジナリティはあるのでしょうか。
 テンプレという枠を意識しながらも常にそれを疑いながら読むこと。一見すると相反することのようではありますが、要はバランス感覚ということだと思います。ありきたりな結論かもしれませんが、そんなことを自戒の意味も込めて思ったりしました。

【オマケ】
 ちなみに、私は書きたいことを書くだけというフリースタイルなのでテンプレの持ち合わせとかはありませんし決めてもいないつもりです。自分では気付かないテンプレがあるのかもしれませんが、それは私には分かりません。ただ、一応その作品の主題と”語り”には気を使うことにしています。しかしながら、まずは気分が第一です。
 時間については、最近は入浴中に考えをまとめて風呂上りに水分補給しながら一気に書き上げるというスタイルが定着しつつあります。キーボードに向かう時間はまちまちですし計ったこともありませんが、普段のプチ書評でだいたい20〜30分程度だと思います(なお、本雑文を書くのには15分くらいかかってます)。あとは少し間を置いて誤字脱字チェックをしたら*2即アップです。独自説みたいなのをぶち上げるときには先例の存在を確認するための検索に結構な時間を使うときもありますが、基本は適当です。何の参考にならなくてホントすみません(汗)。

*1:さよなら絶望先生』第二集第十五話参照

*2:その割りにミスが多いのは重々承知しています。ホントすみません(汗)。