『イスタンブールの群狼』(ジェイソン・グッドウィン/ハヤカワ文庫)

イスタンブールの群狼 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

イスタンブールの群狼 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 ヤシムがつくづくとかぶりを振る。どれだけ長生きしてこの街をよく知ったつもりになろうと、人を惑わす複雑怪奇さはうっかり踏みこめない横丁顔負けだ、代替わりごとに申し送る合図とか、内輪の符丁や身振り手まねの寄り集まった無言の叫びだと時に思うことがある。そういえば、あのスープ屋組合の親方とコリアンダーの話もあった。細かい規則、知られざるしきたりがごまんとある。
(本書p231〜232より)

 2007年アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長編賞(エドガー賞)受賞作です。
 本書は、タイトルのとおり19世紀のイスタンブールを舞台にした異色のミステリです。ヨーロッパと中東の中継点として知られる都市。かつて地中海の大半を版図に収めていたオスマン帝国の首都としても知られていますが、そんな大帝国も19世紀には衰退の一途をたどっており、西洋の列強に対抗するため近代化を迫られていました。そんな地理的にも時代的にも極めて微妙な位置を物語の舞台としてあえて選んだ作者の意欲には素直に敬意を表したいです。
 本書の表向きの主人公は白人宦官ヤシムです。彼はスルタン臨席の閲兵式の直前に発生した兵士の連続殺人事件の解決を依頼されます。宦官である彼は、王宮やハレムといった権力の中枢から街の裏通りまでのあらゆるところに顔が利く存在です。そんな彼が狂言回しとなり、イスタンブールという街の謎が読者に示されることになります。
 本書は約500ページとそれなりの分厚さではありますが、その割に字数はそれほど多くはありません。というのも、物語が全部で132のパラグラフに区切られているからです。パラグラフが変わるごとに、場面が変わったり視点が変わったりします。主人公の視点から離れた自由な語りの手法が採用されているのも、本書の実質的な主人公がイスタンブールという街そのものであることの証明だといえるでしょう。
 また、本書の原題は『イェニチェリの木(The Yanisaary Tree)』です。かつて最強を謳われていたイェニチェリ軍団(参考:イェニチェリ - Wikipedia)がかつてその木陰に集い、血祭りにした高官たちの首を吊るした木のことをそう呼びます。本書の細切れのパラグラフという構成は、あたかも細かい枝葉が中央に集まってあたかも一本の木という全体図が明らかになる樹形図のようなものを思い起こさせます。
 そんなイェニチェリですが、本書の物語が始まる10年前には現スルタンであるマフムートⅡ世によって討伐されています。だからこそ、連続殺人の影にもかつて内外に恐れられていた彼らの幻影をみないわけにはいきません。それはまた、ときのオスマン帝国が迎えている歴史の大きな転換点を象徴するものでもあります。

「本意か否かは別にして、確信はあります。やつらが一掃されるのを見たと言われましたね。上等じゃないですか。世界中が考えている通り、ポーランドは五十年前に消滅しました。地図のどこにも見当たりません。ですが、あなたの話ではそうじゃない、まだ生きのびている。言語に、記憶に、信仰にポーランドは生きている。概念として生き続けているんだと。私が言うのもまったく同じです」
(本書p318より)

 概念としての存在。だからこそ、”謎”と”推理”が物語の推進役として作用することになります。歴史的な「事実」よりもさらに抽象的な「概念」が本書のテーマだからです。
 ちなみに、本書ではヤシムが料理をするシーンが頻繁にあります。料理というのはその国の文化を読者に想像させるのにうってつけです。実際、本書で出てくる料理はいずれも食べたことはないけど美味しそうなものばかりです(巻末には訳者によるトライプ・スープのレシピが載ってます)。さらに本書の場合だとミステリっぽさを演出している役目もあるでしょう。というのも、料理というのは実のところ論理的な作業です。焼けば火が通りますし、野菜を煮込めば柔らかくなるし味も染みます。調味料を入れれば味が変わります。因果関係はとてもシンプルです。もちろん技術の問題もありますが、理屈通りに作ればそんなに不味いものが出来上がることはありません。そんな料理の世界でも、歴史の転換点を迎えるに伴って変化が求められることになります。変化を受け入れるべきか。それとも伝統の味を守るべきなのか。イスタンブールという街が迎えようとしている変化は庶民の生活にも密接に関わっています。
 イスタンブールという異国情緒溢れる街を、ミステリの舞台として存分に活かし切っている構成には脱帽です。登場するキャラクタたちも、”街に踊らされている”感がなきにしもあらずですが、とても魅力的です。ミステリとしては変り種なのは間違いありませんが読み応え十分です。オススメです。