桜坂洋と桜庭一樹の同人小説 『桜色ハミングディスタンス』


 書誌情報がないので写真を。
 『桜色ハミングディスタンス』は2005年に行なわれた第4回文学フリマにおいて桜坂洋桜庭一樹が共著で発行した同人小説です。
 桜坂洋桜庭一樹をご存知ない人は以下を参照してください。
桜坂洋 - Wikipedia
桜庭一樹 - Wikipedia
 同人誌(商業媒体ではない)らしく、非常に挑戦的な内容で面白かったです。
(以下、本書の内容に触れながら解説していきますが、物語の結末まで記しますのでご了承ください)

私は桜庭一樹である。(p3)

 物語は、小説家である「桜坂洋」こと「ヒロシ」と「桜庭一樹」こと「真理子」が共著して文学フリマに出すために小説を書かねばならない、と言うメタな場面から始まります。

我らはそうすることでラノベへ−−ではなかったラノベブームへ、でもなかったラノベ解説本ブームへ、一石を投じるつもりなのである。(p3)

 本書が書かれたのは2005年10月。*1
 まさに作者言うところの「ラノベ解説本」ブームであり、「ライトノベル」という存在がビジネスマーケットとして世間に注目され、様々な「ライトノベル語り」および「ライトノベル解説本」がブームになっていました。
 桜坂洋桜庭一樹ともに同じような時期にライトノベルを世に出し、一方で桜坂洋は『スラムオンライン』、桜庭一樹は『ブルー・スカイ』というSF小説をハヤカワ文庫から出版するなど、否が応にも「メタなラノベブーム」を感じていたかと思います。
 『桜色ハミングディスタンス』では二人の作者がそれぞれ物語を書き始め、やがてお互いの文章を改変しながら「二人で」一つの物語を紡いでいきます。はじめは段落を変えるなどそれぞれの書いた文章が分かりやすくなっているものの、そのうち「この文章はどちらが書いた」という区別がつかなくなっていきます。*2この文章は桜坂洋が書いたのか?桜庭一樹が書いたのか?読者は既成概念である「作者と紡がれる物語の同一化」を揺るがされます。
 ヒロシと真理子の二人は、PCのディスプレイをくぐり、テキストという別次元を彷徨い、ハチャメチャな冒険を繰り広げます。『不思議の国のアリス』もかくや、と思わせるほど、不条理で超現実的な世界は、読者の頭をがしゃがしゃとかき回します。
 そんなハチャメチャな世界の中で、「キャラ萌え小説」と揶揄される「ライトノベル」の状況について、皮肉混じりに著しているシチュエーションもあります。

「ハイ、みんな、注目!注目!この階はそろそろダメみたいだわ。これからみんなで、上へ移動しましょう!」(p66)

 キャラは次々に消費され、消費されたキャラは次々と使い捨てられます。ツンデレが流行ったらヤンデレ、そしてその次は?
 「ライトノベル」をまさに「真っ只中」で書いている二人だからこその鬼気迫る場面です。*3
 別世界から還れるのは1人だけ。冒険を繰り広げた二人は離れ離れになり、物語が「分岐」します。言うなれば「桜坂洋ルート」と「桜庭一樹ルート」です。それぞれのルートを経て、別世界から帰ってきた「私」。どちらが還ってきたのか?それは「桜庭一樹」という外見をした「桜坂洋」と、「桜坂洋」の外見をした「桜庭一樹」でした。
 二人の紡いだ物語が交差した瞬間です。
 おそらく、「桜庭一樹」の物語を「桜坂洋」が、「桜坂洋」の物語を「桜庭一樹」が書いているのでしょう。頭の中に「X(クロス)」の文字が浮かぶ、鮮やかな読後感でした。
 スティーブン・キング『ダーク・ハーフ』は二つの名前を使う小説家の物語でした。一方で、桜庭一樹のように同じペンネームを用いながらも全く毛色の異なる作品を書く小説家もいます。*4私たち読者は、「小説家」という「名前」にラッピングされた物語を読んでいるのでしょうか?『桜色ハミングディスタンス』は、「作者」と「物語」の関係について深く考えさせられます。
 同人小説だからこそ出来る意欲的な試みが感じられる、非常に読み応えのある1冊でした。入手困難な本であり、おそらく今後改めて世に出回るのは非常に難しいと思いますが、桜坂洋桜庭一樹の二人を語るのには欠かせない本だと思います。
(補足)
 2007年に桜坂洋東浩紀と共著で、本作と同様の手法を用いて『キャラクターズ』というメタ私小説を書いています。こちらの方は入手可能ですので興味ある方は是非。
積ん読パラダイスinBlog:「キャラクターズ」(『新潮』200宇7年10月号所収、東浩紀+桜坂洋、新潮社、950円)
キャラクターズ 感想リンク集 - 読丸電視行

新潮 2007年 10月号 [雑誌]

新潮 2007年 10月号 [雑誌]

*1:「さて、いまは2005年10月18日である」p3より

*2:とはいうものの意図的に手がかりを残している箇所もありますが

*3:穿った読み方かもしれませんが、登場人物が「桜坂洋」と「桜庭一樹」という著者そのものなのは、「作者」すら「キャラ化」して消費してしまう状況を揶揄しているのかもしれません

*4:乙一もそうですね