『タイムクエイク』(カート・ヴォネガット・ジュニア/ハヤカワ文庫)

タイムクエイク (ハヤカワ文庫SF)

タイムクエイク (ハヤカワ文庫SF)

 本というものが発明された時代には、最新のシリコン・ヴァレーの奇跡と同じように、それは言語を記憶または送信する粗野な装置であり、森林や野原や動物の体から見つかったほとんど未精製の物質を加工して作ったものだった。しかし、本は、巧妙な計算というよりもむしろ偶然のしわざで、その重さと感触によって、また、こちらの操作に対するそこはかとない抵抗によって、われわれの手と目、さらにはわれわれの脳と心を、ある精神的な冒険に連れだしてくれるのだ。もし、孫たちがその冒険を知らないままでいるとしたら、それはとても残念なことだと思う。
(本書p230より)

「わたしはあなたと物の感じかたも考えかたもおなじだ。たとえおおぜいの人は知らん顔でも、あなたが大切に思っていることを、私は大切に思っている。あなたはひとりではない」
(本書p277より)

 紀伊国屋書店「絶版文庫フェア」で入手しました。
 ヴォネガット最後の小説である本書はとても変わった本です。ヴォネガットは『タイムクエイク』という長編小説を書きました。それは、時空連続体に発生した突然の異常す。それによってあらゆる人間とあらゆるものが、過去十年にしたことを、よくもわるくもそのままくりかえすしかなくなる、というお話です。ところが、ヴォネガットはそのもともとの小説が気に入らなかったらしく(本人曰く、”できそこない”)、その長編を解体してしまいます。そのなかの、一番ましな切り身と、ここ七ヶ月ほどの感想や体験談をまぜて作ったシチューが本書『タイムクエイク』です*1。小説とエッセイがごちゃまぜになってる不思議な本です。小説やエッセイといったルール・形式とは無縁の、語りたいことを自由に語るという「語りの妙」が満喫できます。
 小説の主人公はキルゴア・トラウトヴォネガットが過去のいくつかの作品で自らの分身としての役割を与えた、限りなく彼自身に近い存在です。そんなトラウトの人生にヴォネガットは向き合います。それは、彼自身の人生のカリカチュア(風刺画とかそんな意味)であり、作家人生における最終章の役割を担っている作品だといえます。小説の切り身とエッセイ的な語りのなかに短編のアイデアが散りばめられている本書は63の細かい章に分かれています。一章ごとに読むのが楽しいですが、でも深いです。本書を読むと、ヴォネガットをもう一回読みたくなりますし、未読のものはぜひ読んでみたくなります。
 タイムクエイクによる過去十年の追体験(リプレイ)は、十年をただ繰り返すだけです。違うことをしようと思ってもできません。本書を執筆しているとき、ヴォネガットは七十四歳を迎えています。昔話・思い出話はお年寄りの特技ですが(笑)、それをこれだけ軽妙に語れるのはヴォネガットだけでしょう。繰り返しの十年で、彼は様々なことを思い出します。戦争のこと。科学のこと。家族のこと。そして小説のこと。十年の追憶が終わったとき、人には再び自由意志のスイッチがはいります。既視感から無限の機会への移行。どれだけ飄々としてても、淡々と語っても、楽しかった思い出・良い思い出に触れたとしても、リプレイは哀しいものです。そして、これから先の未来にしても、これまでの過去と同じくきっと哀しいものでしょう。それでも、トラウトはまた作品を書き始めます。

「ヴァン・ゴッホとわしのおもな類似点は、彼がたとえだれひとりその価値を認めてくれなくても、その重要性に自分でも驚くほどの絵を描いたところと、わしがたとえだれひとりその価値を認めてくれなくても、自分でも驚くほどの小説を書くところだ。
 これほどの幸運がほかにあるかね?」
(本書p139〜140より)

 本書の時間旅行は単なるノスタルジックなものではありません。それは自らの意志を、自由意志を取り戻すための時間旅行です。過去は未来のためにあります。プロローグで本書が最後の本であると述べてられていますが、そんな最後の本で、未来を自分の意志で生きることの大切さを謳い上げた作品を描く辺りがさすがだと思います。
 ヴォネガットは2007年に死去しました。彼自身は2010年まで自分が生きていることを想定して本書を書いています*2ので、ちょっと後悔があるかもしれませんが、故人の意志を尊重して以下の言葉で締めくくりたいと思います。
 彼はいま天国にいます。

*1:本書の執筆期間は1996年の夏から秋にかけてです。

*2:その意味で、本書は未来を描いた物語でもあります。