『ダイヤモンド・エイジ』(ニール・スティーヴンスン/ハヤカワ文庫)

ダイヤモンド・エイジ〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

ダイヤモンド・エイジ〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

ダイヤモンド・エイジ〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)

ダイヤモンド・エイジ〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)

「わたしが若かりしころ、偽善は悪のなかの悪だと見なされていた」
「なぜなら、相対主義的な道徳論がまかり通っていたからです。つまり、そういった空気のなかでは、他人を批判できない――絶対悪と絶対善がないのだから、批判しようにも拠り所がないわけですな」
「ところが、それが社会のなかにフラストレーションを生んでしまった。人はあら探しをする生き物だし、他人の欠点を批判することが何よりも好きなわけだから。鬱憤もたまる。そこで、どこにでもあるような、微罪にすぎなかった偽善に目をつけて、それを悪の帝王に祭り上げてしまった。というのも、善悪の区別がなくとも、その人が主義として掲げているものと、行動とを見比べれば、その人を批判するための立脚点が得られるからです。批判する必要は、いっさいない。ものの見方や人格を問う必要もない――言っていることと、やっていることが違うではないかと、指摘するだけですから。私の若いころの政論など、実際、偽善の追求に明け暮れておりました」
(本書上巻p339〜340より)

 1996年度ヒューゴー賞ローカス賞受賞作品です。
 物語の舞台は、ナノテクノロジーが高度に発展した未来です。ナノテクの発達によって、ダイヤモンドすらも容易に作ることが可能な時代。それが『ダイヤモンド・エイジ』です。物質組成機の革命は物流の革命にもつながりました。税制度の崩壊により、『ダイヤモンド・エイジ』の社会は、国家ではなく人種・宗教・主義・主張といったものを共有する者の集まりからなる多種多様な〈国家都市(種族や部族)〉に細分化されています。なかでも、《漢》、《ニッポン》、そしてネオ・ヴィクトリア人による《新アトランティス》の三つが三大種族とされています。
 その中のひとつ、《新アトランティス》の株主貴族であるフィンクル・マグロウ卿は現在のネオ・ヴィクトリア的教育に疑問を抱き、技術者ハックワースに自分の孫娘の教育用のブック型インタラクティブ・デヴァイス〈若き淑女のための絵入り初等読本〉(=プリマー)の作成を依頼します。ハックワースは依頼どおりにプリマーを作る一方で、自分の娘のためにそのプリマーの違法なコピーも作成します。ところが、その違法プリマーを盗まれてしまい、そのプリマーは幼い少女ネルのものとなります。ネルは貧しさと母親の愛人からの暴力に苦しむ生活を過ごしていましたが、プリマーとの出会いによって様々なことを学び成長していきます。
 プリマーはナノテクの粋を結集して作られた特殊な本です。持ち主である少女の能力や周囲の環境、関わりのある人物などを逐一観察します。子供の心の測量図を作成し、そのメンテナンスを行うことを役割とします。持ち主である少女専用の本なのです。本は少女に物語を語ります。本は少女に問いかけます。少女が本に問いかければ、本は答えを教えてくれます。そして、少女が成長すると物語も成長していきます。最初は絵本のようなものです。「普通の子供番組じゃないよね。教育的要素はある。だが、もっと暗い。大部分はかたくなな、グリム兄弟的コンテンツ。ストレートかつ強烈」なお話です。それが徐々に難しい物語へと進化していきます。そうした作中作としてのプリマーをネルと一緒に読んでいくのも本書の楽しみ方のひとつです。
 そんな少女の成長譚・おとぎ話みたいな物語かと思っていたら、上巻から下巻に切り替わる辺りでのとんでもない展開にびっくりさせられました。18禁じゃん(笑)。ま、その前にも結構グロい描写とかあるんですけどね。サイバーパンクSF(下巻の訳者あとがきでは”アルケミーパンク”という呼び名が紹介されてます)らしく上品と下品、超ハイテクとローテク、東洋と西洋、金持ちと貧民といった世界の多様な側面が猥雑に描かれています。
 本書の世界ではナノテクが至る所に浸透しています。ダニのようなナノテク(意思を持つ塵)。人体に入り込むナノテク。人の目に見えない極小の世界での営み。それはやがて物質と情報の、ジーン(遺伝子)とミーム(情報子)の境目を曖昧なものにしていきます。夢と現実とを混濁させる乱交めいた交歓の共通体験が集合的無意識を認識可能なレベルにまで押し上げてしまいます(このアイデア・イメージはちょっとすごいと思いました)。ナノテクによって物質的な欲求が簡単に充足されてしまう社会にあって、情報子(ミーム)による現実へのアプローチが次なるステップとして考えられます。その鍵となるのが錬金術師(=アルケミスト)です。プリマーの違法コピーした罪をあばかれたハックワースは、アルケミストの探索を命じられます。技術者から錬金術師への旅。二つを分ける違いとはいったい何なのでしょうか?
 物語は何人ものキャラクタの視点で語られますしその流れもかなり変則的で正直説明しづらいです。誤読を恐れずにいえば破綻していると言ってよいのかもしれません。でも面白いです。国家都市や種族・部族の思惑が複雑に絡み合い錯綜します。価値観が多様化によって細分化された世界を再統合するための指標としてのプリマーの可能性というのも見逃せません(あくまで可能性のレベルにとどまりますが)。
 そのなかを泳がされるネルやハックワースたちの物語も一筋縄ではいきません。しかし、すべての中心にはプリマーがあります。プリマーによってネルは知識を身につけました。それまで”してはいけないこと””されたら嫌なこと”しか考えられなかったネルに、プリマーは”しなければいけないこと””やりたいことをやること”を教えてくれました。プリマーの製作者であるハックワースもまた、アルケミストの探索のなかでプリマーの物語のなかにいつの間にか取り込まれています。プリマーの影響力は、もともとの発案者であるマグロウ卿の予想を超えた動きを見せます。プリマーというひとつの物語が、読者だけでなく作者にも影響を与え、それが世界を変えていきます。そうした物語・書物を超える力を描き出した書物が本書です。捉えようによっては化け物じみた本です。文学作品はときに生き物に例えられますが、作者のものでもなく読者のものでもなく、しかし両者の存在なくしては有得ない不思議な存在である物語の姿を巧みに表現していると思います。世界観は緻密かつ圧倒的ではありますが、それを支えるSF的な設定はお世辞にも分かりやすいとはいえません。不親切です。ぶっちゃけ最初はとても読みにくかったですし読後感も決して心地のよいものではありません。ストーリーもめちゃくちゃです。でも、得体の知れないものを得体の知れないままに表現しているというニュアンスが伝わってきます。曲者ではありますが、物語が持っている力を謳いあげているという意味で、複雑な思いはありますがそれなりにオススメです。