『本泥棒』(マークース・ズーサック/早川書房)

本泥棒

本泥棒

 本書はナチス支配下のドイツが舞台の物語です。しかも、語り手は死神です。第二次世界大戦と死神という組み合わせからはどうしようもない死の臭いが漂ってきます。ただ、本書の主人公である”本泥棒”リーゼル・ミメンガーや、彼女のボーイフレンドのルディ・シュタイナーといった少年少女たちは、そんな過酷な状況にあっても元気に遊んだりしています。そうした姿を見てるとこっちまで明るい気持ちになってきますが、しかし、語り手である死神は登場人物たちの死を淡々と予告していって、そして物語はそのとおりに進んでいきます。

 もちろんわたしはひどいことをしている。話の結末を台無しにしているのだから。本全体のみならず、この章の結末までもを。わたしはあなたにふたつの出来事を前もって教えてしまった。ミステリに仕立てていくことに興味がないのだ。ミステリなんか退屈だ。わたしは何が起こったかを知っているし。あなたもそうだというわけだ。わたしをいらいらさせ、困惑させ、興味を持たせ、びっくり仰天させるのは、何があってそんな結果になったかということだ。
(本書p303より)

 ユダヤ人の悲劇。そしてドイツが迎える敗戦。それらは避けようのない歴史上の事実です。それを受け止めるだけの覚悟を読者は求められます。
 リーゼルは、幼い頃に弟の死を目にします。そのとき手にした一冊の本によって、彼女は本にとり憑かれてしまいます。それから、彼女は機会を見計らっては本を盗むようになり、そして言葉を覚えていきます。
 本を盗む。それはもちろん犯罪です。同年代の少年たちが飢えと貧しさから食べ物を盗みますが、リーゼルはそれだけでなく本を盗みます。罪の意識に怯えながら。その一方で、たくさんの書物が焼かれていきます。そして、ユダヤ人は迫害され次々と殺されていきます。それらはすべて合法的なものとして行なわれます。燃やされる本であっても盗めば犯罪です。ユダヤ人をかばうのも犯罪です。そうした矛盾。歪んだ価値観。「本を盗む」という行為から浮かび上がってくるのはナチスと、そして戦争がもたらす狂気の社会です。
 独裁者による支配は、多様な考え・価値観を否定します。だから本は燃やされます。ナチスに忠誠を誓えない人間は排除されていきます。ヒトラーの支配は法律と命令という”言葉”による支配です。”言葉”には力があります。人を支配する力。人を殺す力。死なせる力。リーゼルは本を読むことで、ナチスが押し付けるそうした力とは違う”言葉”を感じます。”言葉”の力を知った彼女は、今度はそれを自分のものにすることを考えます。
 本書の語り手である死神ですが、そんなに悪い奴(?)じゃありません。自分の仕事があまりにも多いことを嘆き、死に行く人間には同情します。しかし、運命を変えることはできません。どうしようもない現実だからこそ、死神はときにブラックなユーモアを交えつつ淡々と語ります。悲劇の中の唯一の真実である死を象徴する語り手として、死神はまさに適役だと思います。
 物語は死に彩られていますが、それでも人々は生きています。リーゼルとルディの幼い恋心。彼女の養親を始めとする大人たちが見せる大きな背中と厳しい現実。ユダヤ人のマックスとの交流。戦火に怯える町中にも人々の営みはあります。死神が司る”死”とそれによって語られる”生”が、作中の描写に力強い陰影を与えています。だから物語性も高くて面白く読めてしまうのですが、でも哀しいお話です。
 ズーサックは1975年生まれ。大戦の経験のない作者が書いた大戦下のお話ですが、とても心打たれる物語です。悲劇を繰り返さないために必要な想像力を、この物語は存分にかきたててくれます。訳者あとがきによれば、本書は各国でベストセラーの上位を占め、さらに映画化権が早くも二十世紀フォックスに売れているそうですがそれも納得です。国境や人種を問わないオススメの一冊です。
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