『たたり』(シャーリイ・ジャクスン/創元推理文庫)

たたり (創元推理文庫)

たたり (創元推理文庫)

「人間は、どんなものでも自分たちの世界に引きずり込み、”名前”をつけようとやっきになる。それがどんなに意味のない”名前”でも、つけてしまえば科学的裏付けがあるものとして、安心して見られるからだ」
(本書p93より)


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 本格ミステリでは、ときに限定された状況下でのみ成立可能なトリックを実現させるために”館”という特殊な舞台を用意して物語を進めることが多々あります。そうしたミステリでは、「そんなとこに行くの止めればいいのに」と読者に思われないように登場人物に館への偏執的な執着を持たせたり、館に物質的・観念的な価値を持たせたり、あるいは誰もが興味を引かれるような現象を発生させたり、などなど。とにかく、ありとあらゆる手段でもってキャラクタは館へと誘い込まれ、その館の中でドラマが繰り広げられることになります。そうした様々な工夫に対しては敬意を払わずにはいられませんが、本書ほどキャラクタが”館”に引きこもれてしまい、ついには飲み込まれてしまう過程を描いてしまった作品は他にないと思います。本書に比べれば、多くの本格ミステリで描かれている”館”への誘惑・魅力など児戯に等しいといわざるを得ません。逆に言えば、本書が頭の片隅に常にあり続けることで、”館”にこだわってしまうキャラクタの気持ちを補完することができちゃったりします。それくらい印象深い作品です。
 本書は、映画『ホーンティング』の原作としても知られている通り、ジャンルとしてはホラー・恐怖小説に分類されるでしょう。しかしながら、同作者の『ずっとお城で暮らしてる』と同じく、幽霊やモンスターといった分かりやすい恐怖が描かれているわけではありません。ポルターガイスト現象、あるいはラップ現象と呼びたくなるような事態は発生します。しかし、そうしたものが超常現象なのかどうか、実はハッキリとはされません。登場人物の内の誰かの作為によるものかもしれませんし、屋敷の特殊な構造によるものなのかもしれません。あるいは、本当に超常現象なのかもしれません。いわく付きの屋敷内で発生する不可思議な現象は、確かに恐ろしくないといえば嘘になるでしょう。しかし、本書で扱われている恐怖の本質は、そうした直接的な部分にはありません。人々に恐怖を与える対象、あるいは戸惑いを与える不可思議な現象は確かに恐ろしいです。しかし、それよりも、それによって壊れていく心。壊れゆく心によって変容していく現実。それこそが恐ろしいのです。
 本書は、いわくつきの〈丘の屋敷〉で発生するといわれる超常現象を調査のためにモンタギュー博士が呼び寄せた協力者の一人であるエレーナの視点で語られます。32歳になる彼女は、最近までずっと母親の介護をして生活してきました。周囲との接触のない生活をしていた彼女の自我は、外界の変化にとても弱いです。そうした”信頼できない語り手”の語りからは、彼女が抱える不安や恐怖がまざまざと伝わってきます。それは恐怖という点で読者としてシンパシーを覚えますが、それと同時に、彼女が見ようとしないもの、感じようとしないもの、考えようとしていないことに対しての苛立ちにも繋がります。そうした心情は、エレーナ以外の登場人物たちへの心情に対してのシンパシーとして機能して、それがまたエレーナの心情へと作用していくという悪循環が繰り返されます。閉鎖された状況下での物語に相応しい閉塞的な人間模様です。

「幽霊が人の心を攻撃するというのも間違いだ。なぜなら、人間の心、意識、思考する知性というものは、外部から傷つけられる性質のものではないし、今ここに座って話しているわたしたち自身の理性的意識の中には、幽霊を信じる気持ちなど、みじんもないのだからね。その証拠に、昨夜あんな体験をしたあとでさえ、みんなは”幽霊”という言葉を使うたびに、つい苦笑いをしてるじゃないか。そう、超常現象の真の恐ろしさは、それが現代人の精神的に弱い部分、迷信を一笑に付すだけの強さを持たず、それを補う別の防御さえもないような心の隙間に、容赦なくつけ込んでくるという点にあるんだ」
(本書p179〜180より)

 そんなことはエレーナにも分かっています。しかし、彼女に分からないのは、彼女が分かって欲しいと思っているのは、そんなことではありません。まあ、今風に表現しちゃうと「空気が読めない」という身も蓋もない言い方になっちゃいますが(笑)、しかし、そうした自分と周囲とのギャップが、彼女にとってはどうしようもない隔絶となり、さらにはそこに奈落を見つけてしまうことにもつながってしまうのです。

「恐怖とは、つまり論理性の放棄。合理的思考パターンをみずから捨て去ったところに生まれる」
(本書p204より)

 彼女は論理性を自ら捨て去ったのでしょうか。彼女自身の語りを目にしているはずなのに、それを読んでいる私にはそのことが判断できません。そこにこそ、この物語における恐怖の、そして哀しみの源泉があるのだと思います。