『グリーン・レクイエム/緑幻想』(新井素子/創元SF文庫)

グリーン・レクイエム/緑幻想 (創元SF文庫)

グリーン・レクイエム/緑幻想 (創元SF文庫)

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 上記記事において、様々な緑髪キャラの名前が挙げられてて、それについていろいろと面白い考察がされています*1。そんな緑髪キャラを語る上で個人的に忘れがたい作品が『グリーン・レクイエム』です。
 本書には、1980年に発表されて第12回星雲賞(短編賞)を受賞した『グリーン・レクイエム』と、その続編に当たる長編『緑幻想グリーン・レクイエムⅡ)』の2編が復刊されて収録されています。
 まずは新井素子の初期代表作『グリーン・レクイエム』です。大学で植物学を研究している嶋村信彦の子供の頃の記憶。それは、子供の頃に迷い込んだ山奥でたどりついた洋館から聞こえてきたピアノの音。そして緑色の髪の少女。そんな彼女との再会は、彼らを思いもよらない悲劇へと導くことになる。そんなお話です。本作は短編なのですが、緑髪の少女・明日香の刹那的で悲劇的な生き方が短い物語の中に凝縮されていて、とても印象的なイメージが頭の中に残ります。1988年には映画が公開されたそうです(参考:Wikipedia)。観たことないので分かりませんが、緑色の髪をどのように表現していたのか気になるところではあります。
 『緑幻想』は、『グリーン・レクイエム』の続編として1990年に発表されました。一言で表すと環境問題がテーマのSFです。新井素子といえば特徴的な言文一致の口語文体(『涼宮ハルヒの憂鬱』などで用いられている手法)で広く知られていますが、本作はそんな新井素子にしては珍しく(?)、三人称による語りが用いられています。しかし、これがまた独特といいますか、変わってます。上手く説明するのは難しいので実物を手にとって欲しいのですが、その文章の主語における「てにをは」が省略された表現が頻出するのです。読めないことはありませんが、最初のうちはかなり違和感がありました。不思議な手法です。テーマが堅苦しいものなだけに、フランクというかラフな語りにしたかったのかもしれませんね。
 本作は、『緑幻想』の背景を補完するとともに、前作で登場した人物と、新たに登場した人物たちの人生にひとつの区切りを付ける物語です。そこで表現されている緑のイメージ、自然のスケールはとても面白いと思います。ただ、物語としてはまったくオススメできません。物語の舞台に全員が上がるまでの過程がとても乱暴というか安直ですし、そこで語られる物語があまりにも説明的過ぎます。小説を読んでるという気があまりしないのが致命的です。
 ただ、種の問題・生物と個体といった関係を論じようとすると、個体の自由意志というものはときに無視されがちです。本書の登場人物の大半が自分の意志ではなく何者かに操られることによって物語に関与していくのが、あまりにも気持ち悪く、しかしながら特徴的ではあります。種としての人類と自然(環境)との関係を語ろうとすると、どうしても個体という枠を無視せざるを得なくなり、結果として説明調にならざるを得なかったのかな、とは思います。世間からの抑圧から自我を確立するという少女マンガ的なテーマともそれなりにマッチしてるのかなぁ、とも思いましたが、それにしたって登場人物たちに「自分」というものがなさ過ぎます。そこが怖いです。
 本作を語る上で無視できないのは、それが描かれた時代です。『グリーン・レクイエム』が発表されたのは1980年ですが、それから約30年が経っているにもかかわらず、本書で描かれている内容は全然古めかしいものになっていません。それは10年や100年といったちゃちな規模ではない、もっともっと広い視野から物語が語られているからこそです。ストーリーはお世辞にもオススメはできませんが、そこで表現されているイメージを味わって欲しいという意味ではオススメしてもいいかな、と思ったり思わなかったりです。

*1:ちなみに、緑髪キャラ=超能力者という指摘がリンク先記事中でされていますが、これについては、『サイコスタッフ』(水上悟志芳文社)p151で、「何故か超能力者の髪は緑色という先入観があった。超人ロッ○のせい? いやサイ○プラスのせいか。まあいいや。」という戯言が述べられていますので参考まで。ちなみにのちなみに、『サイコプラス』といえば藤崎竜で、藤崎竜といえば『封神演義』ですが、『サイコプラス』に登場する緑髪キャラと『封神演義』の妲己というキャラを併せて深読みすると、藤崎竜新井素子(もしくは『グリーン・レクイエム緑幻想』)のファンではないかと邪推できますが、確証はありません。