『ドゥームズデイ・ブック』(コニー・ウィリス/ハヤカワ文庫)

 ダンワージー先生、わたしはこの記録をドゥームズデイ・ブックと呼ぶことにしました。中世の生活の記録になるはずだし、ウィリアム征服王の調査台帳はまさにそれだったんですから。もっとも彼自身は、領民たちが支払うべき黄金と税を一ポンド残らず確実に手に入れるための手段と考えていたわけですが。
 ドゥームズデイ・ブックと呼ぶもうひとつの理由は、先生ならきっとそう呼ぶだろうと思ったから。なにか恐ろしいことがわたしの身に起きるに違いないと確信しているみたいでしたからね。
(本書上巻p41〜42より)

 本書の原題は「Doomsday Book」ですが、「Doomsday」には「最後の審判」という意味があります。一方、調査台帳は「Domsday Book」ですので、スペルが微妙に違います。Wikipediaによれば、つづりが変わったのは「Dome」が「家」を意味するからだとされています。本書は、そうしたタイトルの通り、人類滅亡の恐怖を描いたものであるとともに、人々の生活の記録が描かれたものでもあります。
 21世紀の近未来。過去への時間旅行が実現可能となり、研究者は専門とする時代を直接観察することができるようになりました。同じような設定のものに、菅浩江『そばかすのフィギュア(プチ書評)』所収の短編「お夏 清十郎」というのがありますが、あちらは真善美・芸道の追求のために時間遡行能力が使われていますが、本書では歴史学者がその研究・真実の探求のために時間遡行を行なっています。また、「お夏 清十郎」の方は意識のみの時間遡行であるのに対し、本書の場合は肉体ごと時間遡行を行なわなければなりません。時間旅行の際のトラブルだけではなく、その時代でのトラブルにも備えなければなりません。そんなタイムトラベルがメインの物語だと(勝手に)思って読み始めたら、全然違う方向へとシフトしていったのに驚きました。いや、タイムトラベルものであることには違いはありません。本書は、14世紀にタイムトラベルした若き歴史学者の卵であるキヴリンと、21世紀で彼女の身を案じる教授であるダンワージーという2つの視点から語られます。で、14世紀に到着したキヴリン視点からは、当時のオックスフォードの様子がとても緻密に描かれています。実はキヴリンの時間旅行には手違いがありまして、当初の実習予定とは異なる体験・苦悩に直面することになってしまいます。皮肉ですが、そのことによって当時の生活感と、そして”死”というものを、より強く体感することになってしまいます。
 そんな彼女の身を案じるダンワージーですが、こっちはこっちでそれどころではなくなってしまいます。原因不明のウィルスの蔓延によって、21世紀のイギリスは大混乱に陥ります。学内の教授たちも次々と病に倒れることになります。14世紀という過去と、21世紀という近未来で発生するバイオハザード(生物災害)。それこそが本書のSF的な意味におけるメインテーマなのです。バイオハザードによる人類の大量死は、歴史上幾度も発生しています。その恐怖は、科学の発達した現代においても変わることはありませんし、未来もまた例外ではありません。時間旅行技術の実現によって過去と未来を直結させ、その両方でバイオハザードを発生させることで、本書はバイオハザードの普遍的恐怖を強烈に訴えています。
 バイオハザードはあっという間に、まさに理不尽と思えるほど突然に、人の命を次々と奪っていきます。ともすれば一人一人の生命の価値が疎かになりがちな展開ですが、そうはなりません。それは、過去と現在(本書では21世紀)の両方で、キヴリンという一人の少女の生命の危機を心配している人がいて、彼女個人の生死に焦点が当てられているからでしょう*1。しかし、だからこそ本書は哀しいのです。上下巻とボリュームはありますが、ストーリー自体はシンプルですし、リーダビリティは高いのでサラッと読めます。ところどころにユーモアもあります。だけど、重いです。
 SFとして期待して読むと肩透かしの感はありますが、一方で、SFだからこそこうした物語が描けるというのはあります。過去と未来をつなぎ合わせてひとつの物語として語るための「手段」としてのSFとでも呼ぶべきでしょうか。奇想という面では平凡かもしれませんが、力強さは一級品です。SFというものの懐の深さを実感できる一品です。

*1:笠井潔がミステリ論壇で主張するところの大量死論と仕組み的に近いといえると思います。