『学校を出よう! 1』(谷川流/電撃文庫)

学校を出よう!―Escape from The School (電撃文庫)

学校を出よう!―Escape from The School (電撃文庫)

 妹の幽霊(しかも超能力者)に取り付かれた主人公の少年が、超能力者ばかりの学校に押し込められて、そこで不思議な体験をするというお話です。幽霊といっても、成仏させるにはどうしたらいいか、といったファンタジーな展開にはなりません。じゃあファンタジーじゃないのかといえばそうでもなく、SFのようでもありますが違うような気もします。「誰の認識によって幽霊は存在しているのか?」という立論をすればフーダニットもののミステリのようにも読めますが、それはおそらく極めて少数派だと思われます(苦笑)。
 「我思う、ゆえに我あり」とはデカルトの有名な命題ですが(参考:Wikipedia)、思うことで存在できるのならば幽霊がいたっていいのではないか? 集合的無意識(参考:Wikipedia)とやらがあるとするならば、何らかの姿で存在しているのではないか? もちろんこうした問題の立て方にはレトリックがありまして、物質的な存在と観念的な存在とをごっちゃにしているわけです。
 しかし、これが物語内でのお話となりますと、すべてが観念的な存在となりますから、思うことで幽霊を登場させることもできますし、幽霊がものを思うことだってできます。そうすると、「我思う、ゆえに我あり」で良いのでしょうか? 「我ある、ゆえに我思う」ではないのでしょうか? また、思うことで存在が確認できるのであれば、集合的無意識の存在が確認できたって良いでしょう。
 ”思い”と”存在”の両方があるならば、両者をつなぐ因果関係にはいくつかの可能性が考えられます。物語内の存在を支える因果関係など所詮は全部フィクションです。したがいまして、そうしたいくつもの可能性は説得力の程度に関わらず、それらはすべて等価です。だからこそ、選ばなければなりません。選ぶことによって価値が生まれるのです。いや、選んだ可能性にのみ価値がある、というべきでしょうか。
 そもそも、物語(小説)というもの自体が、作者と読者との集合的意識(無か有かはよく分かりませんが)によって成り立つ存在です。そうした中にあってこうした認識論が展開されてるところが非常に面白いです。
 ところで、本書を読んで私はP・K・ディックの『流れよわが涙、と警官は言った』を思い浮かべました。『流れよ〜』は、国家のデータバンクによる情報管理によって個人の存在が確認される世界において主人公のタヴァナーに関する記録のすべてだけがなぜか消失してしまい、さらには誰からも忘れられた存在となり窮地に追い込まれる、というお話です(『うしおととら』の白面の者による記憶消去のようなものです・笑)。しかしながら、『流れよ〜』を読んだ方ならお分かりでしょうが、『流れよ〜』においてもっとも印象深く読者の共感の対象となる人物は、主人公よりも、むしろ彼を追いかける立場にある警察のパックマン本部長でしょう。そもそも、タイトル(原題『FLOW MY TEARS, THE POLICEMAN SAID』)からしてそれは明らかです。パックマン本部長には最愛の妹アリスがいます。アリスとパックマン本部長との関係が『流れよ〜』の眼目です。ネタバレになっちゃうので詳細は書けませんが、『学校を出よう!』の兄妹の関係は、何となく『流れよ〜』の兄妹がモチーフになっているように思います。読み比べるとちょっと面白いと思うのでオススメです。
流れよわが涙、と警官は言った (ハヤカワ文庫SF)

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