『インシテミル』(米澤穂信/文藝春秋)

インシテミル

インシテミル

 昨年出した『夏季限定トロピカルパフェ事件』は幸い若い読者にも受け入れられたんですけれども、これについて面白いことを言ってくれた方がいます。この小説をロジカルな本格ミステリとして読んで面白いと思う層はたぶんあまり多くはない。ではどこを面白いと思って読んでいるかというと、最終章で主人公と黒幕とが丁々発止のやりとりをするんですが、それをあたかも少年マンガのバトルもののように楽しんでるんだと言うんです。考えてみれば、名探偵がいて犯人がいて、彼らが孤島なり密室といったバトルフィールドで推理を用いてバトルをするという構造が読者にとっては大事なのであって、そのとき論理的な解決であるかといったことは重視されていないんじゃないかと。
(『ユリイカ 2007年4月号』p80より)

 面白かったです。”人文科学的な実験”と称してアルバイトに募集してきた12名を閉鎖された空間に隔離しそこで推理ゲームをさせるという設定は、ミステリ版スタンフォード監獄実験(参考:Wikipedia)とでも言ったらよいでしょうか。探偵ごっこが成立するためには、最低限探偵と犯人が必要で、さらに本書の設定は犯人の役割として殺人を命じていますから必然的に被害者も生まれることになります。つまり、デスゲームと推理ゲームとが融合したものが本書です。
 登場人物たちは、探偵や犯人あるいは被害者といった属性が明らかでないまま読者の前に現れます。そして、物語内の時間が進むにつれてそうした地位を奪い合い、ときには押し付け合います。そうした駆け引きが行なわれる一方で、生き残っている人物たちはさらなる被害者が出ないように協力し合わなければなりません。
 アルバイト終了後の報酬のことを考えれば、推理ゲームに興じて探偵となり犯人を指名することに専念すべきです。しかし、この実験はデスゲームの側面も有しています。いくら多額の報酬を得る権利を獲得したとしても、死んでしまっては元も子もありません。そうした意味で、本書内における”推理”とは真相を明らかにするための行為ではなく、生き延びるための手段に過ぎないという見方もできます。そうした相克がいわゆる”ミステリ”とは何なのか、といったミステリ独特の空気を逆に浮かび上がらせてくれてるところがミステリファンとしては嬉しくも切ないところです。確かに、今時のミステリとはこういうのもなのかも知れませんね。
 米澤穂信と言えば、いわゆる青春ミステリの名手して知られています。〈古典部〉シリーズしかり〈小市民〉シリーズしかり『さよなら妖精(書評)』しかり。これらの作品は、ミステリというフレームを利用して主人公たち若者の成長を客観的に描かれているために青春ミステリと評されています。そうした観点からしますと、本書はかなり特殊です。登場人物たちの成長というこだわりのテーマが排除されて、推理ゲームにおける心理戦のみがじっくりと描かれています。これは必ずしもミステリ度が高いという意味ではありません。ミステリ度という観点だと〈古典部〉シリーズ2作目『愚者のエンドロール』などの方が明らかに高いです。青春ミステリに見られるような身体的感覚を伴った謎(『ユリイカ 2007年4月号』p80)ではない観念的な謎にこだわった作品が米澤作品における本書の位置付けということになるでしょうか。インシテミルが”淫してみる”であることは広く(?)知られていますが、では本書において作者は何に淫したのか? それは、ミステリの中にバトル的構造を読み取ってもらうのではなく、バトル的構造の中からミステリの楽しさを読み取ってもらうという作業です。つまり飲めない酒を無理に飲んで泥酔して普段の自分のとは違うミステリを書いてみた、ということだと思います。だからといって、推理のロジカルがおざなりになってるわけでは断じてありません。そこが面白いところです。
 バトル的構造のフォーマットで行なわれているからこそ、それによって浮き彫りになるミステリにおける”推理”の性質が面白いです。まず、”推理”とは、その言葉から受けるイメージとは裏腹にとても暴力的なものだということです。加えて、一見難しそうに思える”推理”ですが、質を問わないのであればいくらでも可能だし、ときには理不尽なものでも”推理”としてまかり通ってしまうこともあります。また、司法機関を背景にした”推理”であれば、真相が明らかになれば、あとはその真相が前提となって法廷において犯人は裁かれるという法のレールが敷かれています。しかし、本書のような特殊な空間における推理ゲームだったり、あるいは米澤の十八番である青春ミステリの場合、真相の解明=事件の解決ではありません。既存のスキームに疑問を感じた上で、それに対して自分に一体何ができるのか? というところまで考えさせるのが米澤ミステリの本領です。そういう意味では、バトルもの・デスゲームといった特色はあるものの、本書はまさに米澤らしいミステリです。
 米澤穂信のファンなら必読なのはもとより、ご新規さんにも自信を持ってオススメできる一冊です。
【関連】Gotaku*Log | 「インシテミル」を読了(「Day before」のモニターと登場人物との関係性についての考察です。)