『虐殺器官』(伊藤計劃/ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

虐殺器官 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

虐殺器官 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

「好きだの嫌いだの、最初にそう言い出したのは誰なんだろうね」
(本書p159より)

 とても面白かったです。
 ストーリーはとてもシンプルです。主人公クラヴィス・シェパード大尉はアメリカ情報軍に所属している軍人で、世界各地での紛争を解決する手段としての”暗殺”の任務を受け持っています。9・11以降、世界では内戦や民族虐殺が増加の一途を辿っています。そうした大虐殺事件の陰にジョン・ポールという謎のアメリカ人の暗躍が常にあります。彼を暗殺するためにシェパードたち情報軍のメンバーは本格的な行動を開始するが……。といったお話です。スパイもの・特殊任務ものとしてはありがちなストーリーです。ただ……。
(以下、ネタバレ気味に長々と)
 本書の優れたところは、まずそうしたシンプルなストーリーが9・11以降の世界の在り方にとても自然な形で溶け込んでいる点にあります。本書は9・11以降、現実の世界より少しだけ未来で、テロとの戦いにより本格的に、手段を選ばず立ち向かっています。我々の住んでいる世界では、9・11の後、ご存知のとおりアメリカはフセイン大統領を悪の象徴としてその身柄を確保するために戦争を起こし、結果敵味方に多くの犠牲者を出してフセインを捕まえました。ただ、今なおイラクは内戦状態にありますし、平和が訪れる見通しは立っていません。
 しかし、フセインを悪の象徴とするならば必ずしも戦争など起こす必要はありません。そういう意味で本書のような”暗殺”という手段にも一理あります。ですから、本書は近未来・仮想未来のお話なのですが、その設定にはとても説得力を感じます。そんな暗殺という任務に対し、本書の主人公たちはプロフェッショナルとして完璧に取り組み実行します。紛争で一人の人間の想像力ではとても追いつかないような数の死者が出ているという事情を背景に、たった一人の要人を殺すことに全力を尽くすシェパードたちの姿は、本末転倒ながらも生命の価値を再認識させてくれていて、そこがまず面白いです。
 SFとしてみたときには、やはり虐殺器官という設定に注目しないわけには行きません。本書において言語とは、生存と適応から生まれた『器官』にすぎない(p89より)とされます。そして虐殺の文法を語ることで大量虐殺を発生させる、ゆえに『虐殺器官』です。簡単に言うと、サブリミナル効果(参考:Wikipedia)の言語版のようなものです。そうしたSF的設定を、本書では宗教やカウンセリングなどを引き合いに出しながら巧みに説得力のあるものにしています。言葉の持つ力というものを本書はとても大事にしています。ことばには臭いがない(本書p174より)。確かにそうです。内臓や血の臭いに脂肪や髪の毛が燃える臭い、火薬やゴムタイヤが燃える戦場の臭いといったものはいくらことばを連ねられても感受することはできません。しかし、だからといってことばに意味がないわけではありません。そうでなければ、ことばだけで構成されている表現形式である小説がこれほどまでに世間にたくさん出回ることもないはずし、それを読んで心を動かされることも説明できません。ことばには力も意味もあります。だからこそ尊く、だからこそ恐ろしいのです。もっとも、『虐殺器官』は、そうしたSF的設定を意味するだけでなく、音で聞いたときに最初に想像する意味、すなわち『虐殺機関』としての国家の意味を含んでいることも確かでしょう。本書は、『虐殺器官』と『虐殺機関』について書かれた物語です。本書を恐ろしいほどに短絡的に読めば、それこそ大量虐殺から個人の暗殺までを扱った老若男女を問わない死体がオンパレードの18禁バイオレンス小説です。だからこそ、本書にはそうした死を否定する意味があるのです。ことばの裏にある力を大事にする虐殺の器官の理論は、その理論が正しいものであるなら、その理論そのものを語ることによって逆に崩壊してしまうのです。本書の内容の過激さを否定する向きもひょっとしたらあるかも知れませんが、そうした本書の真意だけは間違えずに受け取って欲しいと思います(杞憂であれば良いのですが)。
 本書の後半で、卵が先か鶏が先か、といった問題が出てきます。テロとの戦争と言われていますが、テロがあるから戦争があるのか、それとも、戦争があるからテロがあるのか。その答えは私には分かりませんし、おそらく立場によって異なるのでしょう。私に言えるのは、どっちもご免だということだけです。
 それにしても、本書がテロ対策として考えるアプローチ、すなわち後半になってジョン・ポールが明らかにするテロ撲滅のための方法論は、正直言ってとても有効だと思います。それはテロとは違った形の死をばら撒いているだけに過ぎないので問題解決というよりは論理のすり替えに近いのですが、しかし、その有効性は否定できません。もしアメリカが本腰入れてこのアプローチを選択したらと思うと寒気がします。そういう意味では、本書は必ずしもテロとの戦いを否定しているわけではありません。娯楽小説にありがちな分かりやすい二元論に堕すことなく、複雑な問題は複雑なままに物語を進めていきます。文体は軽やかですが物語は重厚です。
 本書の結末もまたツイストが利いてて面白いです。(ネタバレ伏字→)虐殺器官』と戦っていたはずのシェパードですが、結局はそれに敗れてしまった、裏を返せばジョン・ポールの勝利、ということになるのでしょうね。ただ、これはおそらくハッピーエンドということになるのだと思います。なぜならシェパードは”生きている”のですから。(←ココまで)
 とにかく、たくさんの人間が死んでいく物語です。お世辞にも楽しい話だとは言えませんが、だからこそ、現実の世界ではこうなってしまわないように”ことば”を紡いでいけたらいいなと思います。オススメです。
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