『新世界』(柳広司/角川文庫)

新世界 (角川文庫)

新世界 (角川文庫)

ヒロシマナガサキは必然の結果だった。自業自得である」というのがアメリカの言い分で、その考え方は多くの日本人にも理解可能だ。しかし、理解はできても納得がいかぬ事態というものはある。
「謝罪しろ、保障しろ」とアメリカに拳を突き出したりはせずとも、ただ、後悔は求めたい。
(本書p283の有栖川有栖の解説より)

 本書は本格ミステリです。どんなに事実を基に描かれているとしても所詮はフィクションに過ぎません。実際、本書の冒頭で、謎の人物から作家である柳広司のもとに小説の原稿が持ち込まれ、以下、その内容が語れるという形式が採られています。多くの部分を取材によって得た事実に基づいて描いているに違いないのにも関わらず、著者はあえてそうした形式にすることで、本書がフィクションであることを強調します。さらには、本書がミステリーであることも併せて強調します。なぜそんな言わずもがななことをあえて強調する必要があるのでしょう? フィクションであることの意義とは? そしてミステリーであることの意義とは? 思うに、フィクションなのだから本書を読んで知識を得たと思ってほしくはなくて、そして、ミステリーなのだからこのテーマについてどうか考えて欲しい。というような、ささやかながらも厳粛な主張が本書の形式には込められているのではないかと思います。
 作中、原子爆弾の爆発実験の成功を目の当たりにしたオッペンハイマーは、「……世界は以前と同じではない」「私は死神になった。私は世界の破壊者だ」と、叙事詩マハーバーラタの一部である「バガヴァッド・ギーター」の一節を元に呟きます(p73)。タイトルである『新世界』の意味が明らかとなる箇所です。なお本書は2003年7月に新潮社から単行本で刊行されています。で、2003年12月からは週刊少年ジャンプで『DEATH NOTE』(デスノート)の連載が始まります。ノートに名前を書くことでその対象を殺すことができる力を手に入れた夜神月は、「新世界の神となる」(コミックス1巻p49より)と高らかに宣言します。両者の間に関連性はまったくないのですが、だからこそこの対比はとても興味深いです。知によっては抑えることのできない狂気。天才には天才の、狂人には狂人の論理があります。そして論理はどちらにも平等に作用します。それは狂気と正気とを分けるメルクマールにはなってくれません。
 本書の主人公は紛れもなく「原爆の父」として知られるオッペンハイマーです(Wikipedia:ロバート・オッペンハイマー)。しかしながら、作者は物語の語り手として、オッペンハイマー以外の人物、その友人であるイザドア・ラビを選びました。それは、オッペンハイマーと作中に発生する撲殺事件の犯人との双方の理性と狂気とを平等に秤にかけたかったからでしょう。イザドアは友人としてオッペンハイマーを支え、彼にスパイ容疑がかけられたときにも、彼の論理的な行動・理性的な性格を主張して弁護します。その一方で、原爆実験の成功のために計画を淡々と遂行していくオッペンハイマーの姿には理に支配された狂気を覚えます。本書において狂気はどこまでも相対化されます。それは、理性の相対化でもあります。
 世界の平和を願って創設されたノーベル賞を受賞した学者ばかりがロスアラモスという町に集められて開発された原子爆弾。歴史は私の考えなどまったく及ばない皮肉を教えてくれます。アメリカはロスアラモス賞でも創設したらどうでしょうか?
 犯人の狂気と苦悩を語ることは犯人を名指しすることになってしまいネタバレのマナーに反することになるので、それはしません。しかし、犯人の狂気は本当に狂気なのでしょうか? 狂っているのはどちらなのでしょうか?
 ロスアラモスという原爆実験のためだけに用意された町の中で発生した殺人事件について知ることは、ヒロシマナガサキに原爆を投下したアメリカという犯人について知ることでもあります。一個人の死の真相を回収することで、被爆地での大量死における死者の尊厳を回復しようとする意欲的な試みは大いに評価したいです。手の届かなくなった過去の出来事、一個人の感傷などまったく及ぶべくもない圧倒的なまでの破壊力はとても想像できるものではありません。ましてや、それによって生じた惨劇など未体験者などには理解の及ぶものではないでしょう。しかし、だからこそ考えることだけは放棄してはならないと、本書を読んで強く感じました。
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