『星屑エンプレス ぼくがペットになった理由』(小林めぐみ/富士見ミステリー文庫)

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20070718/p1
(↑和風あるいは中華風ファンタジイに、と読み替えるべきでしょうね。)
異世界と外来語 - 一本足の蛸

 それにしても、なぜファンタジーでは文体がかくも根源的な重要性を持っているのか。書き手が会話の調子をほんの少し間違えることで、物事を曖昧に描写することで、時代遅れの語彙や怪しげな文章構造を用いることで、食事前にしては少しばかり重すぎるイコルを使って物語を始めることで――それだけで、その作品はファンタジーとしては失格だということになるのだろうか。表現性に欠く不適当な文体だからといって――それが、どれほど重要なことだろうか。
 重要極まりないことと、私は思います。それは、ファンタジーにおいては、世界に対する作家のヴィジョン以外にはなにものも存在しないからです。歴史から借用した現実も、時事問題も、ペイトン・プレイスに住む単純素朴な一般市民もファンタジーには存在しません。想像力の代わりとなるような、レディ・メイドの感情反応を提供してくれるような、創造行為の欠陥や失敗を覆い隠してくれるような、そんな居心地のよい日常性の鋳型はどこにもありません。あるのはただ、接合部も合わせ目も釘もすべてが露出した、虚空に浮かぶ構造物のみ。トールキンが、”第二の宇宙”と呼ぶものの創造、それは新世界を作り出すことです。かつていかなる声も発せられたことのない世界、語る行為が創造の行為である世界。そこに響きわたる唯一の声は創造者の声です。そして、その一語一語すべてに意味があるのです。
『夜の言葉』(U・K・ル=グウィン岩波現代文庫)p78〜79より

 私も、このケースでは消極的ながら「賛」ですね(∵意味があるのは分かるけど、世界観との兼ね合いで他に方法がなかったのか? という思いも拭えない)。もっとも、これをやってしまうと「和風」とか「中華風」といったところのイメージ・世界観が薄まってしまいますから(あるいは台無し)、そういったリスクも考えてやらないとダメでしょうけどね。
 『ミミズクと夜の王(プチ書評)』は確かにちょっとだけ気になりましたが、しかし、つまるところ作中で使用されてる言語を、日本語と同じ言葉遊びができる場合が一部あるけれどしかし日本語とは異なる言語だと理解してしまえばそれですむ話だと思います。
 ファンタジーと言語の問題はとても興味深いですね(笑)。

夜の言葉―ファンタジー・SF論 (岩波現代文庫)

夜の言葉―ファンタジー・SF論 (岩波現代文庫)