文体とストーリイの問題

ライトノベル作家の文体 - バカ小説とメイドさん至上主義なまいじゃー分室

特に作品を特定はしませんが、需要の問題もあってライトノベルはキャラクター描写と物語に重点が置かれています。

 リンク先の記事とそれがリンクしている記事を読んで、以下の文章を思い出しました。

「わたしはエンタメの方から来て文章の面白さ犠牲にしてストーリイの面白さ追求してきたんだけどそれは読者から想像力を奪ったわけでしょ。で、あなたの『はかない人生』は文章の面白ささえ犠牲にしてもちろんストーリイの面白さなんかも犠牲にして読者の想像力を喚起しようとしてるんだけどよく考えてみたらもしあれが映像化されたらイチコロで負けちゃうのよ。映像化否定するのが『フツーの小説』からの脱出だったわけだけど今は何でも映像化できてただ文章の面白さだけが映像化できないわけでしょ」
筒井康隆『巨船べラス・レトラス』p121より

 つまり、文体とストーリイの問題は今に限らずましてやラノベに限らないということです。にも関わらず、ことラノベについてあれこれ言いたくなるということは、ラノベの文体に特有の何かを感じるからこそでしょうし、それを素直に味わうなり分析するなりして楽しめば良いのではないでしょうか。ということで、私はむしろラノベをつまみ食い程度にしか読まない方にこそラノベの文体についてあれこれ語って欲しいと思ってます。ラノベしか読まない人にラノベを俯瞰的に語ることなどできるはずがありませんからね。
 ちなみに、卑近な例ですが『涼宮ハルヒの憂鬱』などはキョンのシニカルでペダンティックで軽妙な独特の語りが魅力のひとつなのは間違いないでしょう。ですから、私はラノベの文体について特に悲観したりしてません。
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