号外さんちゃ998号@アイヨシ

 ネタがないので、たまには行き詰ってる書評の愚痴でも。
 現在、『きみの血を[→Amazon]』(シオドア・スタージョン/ハヤカワ文庫)の書評を書いてます(マニアック? そんなの知らん・笑)。
 230ページとコンパクトな本なので、そんなに長々と書評するつもりはありません。
 本書の大きな特徴は、一人称・二人称・三人称が混在した”語り”です。様々な視点で語られるのですが、肝心な人物の内面が直接語られることはありません。これは『フランケンシュタイン』と同じ方法でして、つまりホラー小説の伝統であると言えます。
 ただ、そうした手法の原点は、もとを正せば聖書(念頭に置いてるのは新約。旧約は知らん)じゃないかと思います。すなわち、キリストはこう言った、という弟子の視点で語られながらも、肝心な神の言葉・イエスの言葉は直接語られることはないという点で両者は共通しているのではないかと。
 神の言葉を語る本と怪物の悲哀を語る本とが同じ手法で語られているということがある程度論証できれば面白いなと思うのですが、神学の知識に自信がないのと、下手なこと書いたら平和なうちのサイトが荒れちゃうんじゃないかとちょっと心配です。こんな辺境で心配することもないかも知れませんが。

 あと、本書は一応(←ここ重要)吸血鬼小説です。もっとも、『羊のうた[→Amazon]』方向の吸血鬼ですが(←分かりにくい例え)。
 で、吸血鬼伝承の根拠のひとつとして、嗜血症淫血症を挙げることができますが、それって、吸血鬼を滅ぼすものであるはずのキリスト教ですら、キリストの肉と称してチーズを食べ、キリストの血と称してワインを飲んでるんだから問題ないんじゃね? 的なことを書いてるのですが、ひょっとして問題発言? いや書きますけどね(笑)。
 ただ、この怪しげな儀式(コラコラ)って、宗派を問わず行なわれているのかなぁ? てなことは気にならなくもないのですが、まあいいか(?)。

 てなわけで、とりとめもなく愚痴ってみましたが、私はこう思うってな感じのコメントがいただけたら嬉しいです。不真面目・不謹慎なのも大歓迎です(笑)。もちろん、真面目で真摯なご意見も大歓迎ですが。もっとも、万が一にもこの話題が盛り上がったりしちゃったら、それはそれで怖そうですが(オロオロ)。