『学校を出よう! 4』(谷川流/電撃文庫)

学校を出よう!〈4〉Final Destination (電撃文庫)

学校を出よう!〈4〉Final Destination (電撃文庫)

 今回は平行世界がテーマです。平行世界と言えば、通常はタイムトラベルとセットで語られることが多いです。つまり、時空旅行による過去の改変が行なわれた世界と行なわれなかった世界とが並列して存在するという考え方です。量子論などによって理論補強されることも多いですね(参考:Wikipedia)。もっとも、本シリーズの場合、タイムトラベルは2巻のテーマでしたが、時空旅行は時間的ループとして発現し、それが解消すると時間軸は一直線に戻ることになっています。したがってタイムトラベルとは別の手段によって平行世界を物語中に生じさせなければならないのですが、そこで登場するのが〈インスペクタ〉なる謎の存在です。平行世界は交わらないからこそ平行世界なのであって、本来なら他の世界の存在など感知できるはずがありません。ですから、そうした平面的な世界の広がりを認識する縦の存在(上でも下でも構いません)がどうしても必要になってきます。こうした存在については次巻以降でより詳しく語られることになります。
 平行世界が仮に存在するとして、そうしたパターンの分岐はどのように行なわれていると考えるべきなのでしょうか? ノベルゲーム(ADV)によくあるように、登場人物たちの分岐点における行動の選択によって枝分かれしていくのでしょうか? しかし、前提条件が変わらないのであれば、何度やっても同じ行動が選ばれるはずです。人格・個性とはそういうものでしょう。人間に自由意志などないというスタンスに立てばなおさらです。つまり、平行世界の発生には、その世界の住人にとって人知の及ばない存在による恣意的な状況操作とポイントの設定が欠かせないのです。
 ただ、このことは人格というものの考え方によって変わってくるのかもしれません。例えば、コンピュータの将棋ソフトには擬似乱数が組み込まれています。最善を追求しているはずの将棋ソフトになぜこのような運任せの要素が加えられているかと言えば、こうしないと同じ条件で手を進めていくと常に同じ手が繰り返されてしまうことになり、必勝パターンを見つけられてしまうからです。それを防ぐための擬似乱数ですが、それと同じように、人格とは一種のプログラムでありその中にそうした擬似乱数が組み込まれていると考えれば、単なるリセットによっても行動の分岐が生まれると考えることはできます。「サイコロを振る」などおよそ神様ならぬ行為ですが、本シリーズ6巻の最後の方で示唆されていることを加味しますと、こうしたことも併せて考えておくべきかもしれませんね。
 ま、平行世界理論と、それを仮に肯定したとしてどのように生きるかはまた別の問題です。っていうか、実は私は平行世界があろうがなかろうがどうでもよいと思っているのですが(笑)、中には憂鬱になっちゃう人もいます(参考:プチ書評『ひとりっ子』)。平行世界の問題は人生観にもなぞらえることが可能です。本書ではそのことについて宮野が一人テンションを高くして語っていますが、結構大事なことだと思います。
 本書は、超能力ものらしくEMP同士のバトルがあります。今までもなかったわけではありませんが、どちらかと言えば単なる力比べでした。それが本書では、EMPによる戦術・駆け引きといったジョジョっぽいバトルが描かれていますので、ともすれば陰鬱な雰囲気になりがちな平行世界の問題もアップテンポで読ませてくれます。
 ところで、私は本書を読んでP・K・ディックの『高い城の男』を思い浮かべました。『高い城の男』もやはり平行世界のお話なのですが、第二次世界大戦の勝敗が逆転し、日本とドイツが世界を二分して統治している世界が描かれています。もっとも、その世界に住んでいる人間にはその世界が当たり前なので世界についての疑問など本来なら持てはしないはずなのですが、『高い〜』ではそこで一冊の本が重要な役割を果たします。「イナゴ身重く横たわる」という本がそれですが、その本には作中の歴史とは逆にアメリカやイギリスなどの連合軍が勝利した歴史が描かれています。その本のあまりのリアリティの高さが、『高い〜』中の人物たちを苦悩させることになります。
 また、『高い〜』では易経(参考:Wikipedia)という占いによって登場人物が行動を決定する場面が多々あるのですが、実はディック自身もこの易経を使って『高い〜』のプロットの決定に使ったことを告白しています(詳細は『高い〜』巻末の訳者あとがき参照)。この易経、”当たるも八卦、当たらぬも八卦”というくらいですから八という数字が基本となっています。ですから、通常は六十四卦が基本ですけれど、数理的には64から128、256へと拡張・細分化することも可能です(参考:フローに乗るための補助輪、易)。本書『学校を出よう! 4』作中では#256が重要な数字とされています(もっとも、マイナスもあるので数にあまり意味はないという見方もあります)。256という数字は情報処理で頻出する数字なので(参考:Wikipedia)一義的にはそっちのイメージなのでしょうが、平行世界と絡んでくると私には易経が頭をちらついてどうしようもありませんでした(苦笑)。
高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

【関連】
プチ書評 『学校を出よう! 1』
プチ書評 『学校を出よう! 2』
プチ書評 『学校を出よう! 3』
プチ書評 『学校を出よう! 5・6』
『学校を出よう!』シリーズとP・K・ディック作品の関連性についての私論
【少しだけ関連】
そもそも小説って何?

『悪魔はすぐそこに』(D・M・ディヴァイン/創元推理文庫)

悪魔はすぐそこに (創元推理文庫)

悪魔はすぐそこに (創元推理文庫)

 本格ミステリについての論説において、私は法月綸太郎に全幅の信頼を置いています。その法月綸太郎が帯で推薦文を書き、さらには解説も書いてるということで、すごく期待して読み始めたわけですが、大満足の内容でした。
 1966年発表の作品なのでいわゆる古典といえるでしょうが、予想通りの落ち着いた雰囲気が前編の空気を覆いつつ、それでいて意外な真相が隠されている手腕には驚くとともに嬉しくなってしまいました。こういうの好きですわー。
 ミステリは登場人物を限定しないと犯人当てゲームが成立しないので、何らかの形で犯人候補を絞ります。その典型にして極端な例がいわゆるクローズド・サークルといわれるものです。嵐の山荘・雪密室などの閉鎖された状況に登場人物たちを閉じ込めて、その中で殺人事件を発生させることで犯人候補を限定しています。ただ、こうした設定にはどうしても不自然さが否めず、ミステリファンなら気にしない(むしろ嬉しくなる)ところですが、一般向けでとしてオススメするには少々躊躇われます。
 そこで、もう少し自然な方法として考えられるのが、社会的な枠(解説いわく”半身内的サークル”)内での事件の発生です。法律用語でいうところの”部分社会の法理(参考:Wikipedia)”のような人的関係内では、トラブルが発生しても関係者以外の関与が排除され、自然と関係者や犯人候補が限られてきます。本書でも、「法律家としての意見ではないよ。大学の一員として助言したんだ。法廷という公共の場で内輪の恥をさらけ出すのは、どんな大学にとってもけっして好ましくはない」(p25)というセリフがあるように、組織の内部を舞台にすると登場人物を容易に限定することができます。そんな部分社会論も、殺人事件の発生によってその閉鎖性が破壊されます。既存の秩序の崩壊が混乱を生じさせますが、そこから真相の究明を通じて新たな秩序の構築・回復が図れるか否かも、読者にとって犯人当てゲーム以外の興味の対象となります。本書でも、大学ミステリとして複雑な人間関係や大学事務運営、セクハラ、人格と能力の乖離とか、そういう影の部分がミステリらしく淡白に描かれながらもしっかりと押さえられているので、とても面白く読むことができます。
 犯人当てゲームとしてみたときには、三人称による複数視点からの語りが見事です。この点については巻末の法月解説において、ディヴァインを絶賛していたクリスティの某代表作と比較して絶賛されていますが、比較せずとも素晴らしい出来だと思います。複数人の視点によって、事件の全貌が少しずつ読者に語られるわけですが、それによって事件の多面性というものが浮かび上がってきます。それによって登場人物の多面性をも浮かび上がらせることにもなってきて、そのことが結末で読者にとても印象的な余韻を残すことにつながってきます。現在の事件が過去のスキャンダルに光を当て、その照り返しの光が現在の事件にも影響を与えます。過去と現在とが共振し合うことで真実が明らかになる過程もまた鮮やかです。
 けれん味のない実直な仕掛けによる驚きの演出は、それを引き出す作者の技巧を味わうのに打って付けです。非常に完成度の高い本格ミステリだと思いますが、一般向けとしても十分通用する面白さだと思います。広くオススメしたい一冊です。

号外さんちゃ0222号

http://blog.nikkansports.com/general/yoshida/2007/10/post_442.html
 『ボナンザVS勝負脳』の担当編集者さんへのインタビューがあるので興味のある方は要チェックです。ちなみに、どうしても言わずにいられないのが、

こうした疑問は本書で解くとして、
かつてヘボ将棋ばかり打っていた私は、
生命体でないコンピュータについて二人の人間が、
人間に対するように洞察を深めていくことに、
どうにもゾクゾクとした興味を覚えて仕方がなかった。

「将棋は”打つ”じゃなくて”指す”ですからー!!」
 いえ、一般の方ならまだしも、新聞社さん内のブログでそりゃないだろうと思ったので(笑)。
【関連】
プチ書評 『ボナンザVS勝負脳』(保木邦仁・渡辺明/角川oneテーマ21)
将棋は”指す”、囲碁は”打つ”、じゃチェスは?(将棋用語3大ミス)
 ちなみに、『みすてぃっく・あい(プチ書評)』では、”チェスを指す”という表現が用いられてますが、これについて私は全面的に支持する所存であります(笑)。



http://blog.goo.ne.jp/take_14/e/ac41f116d43fdfcf001d3f73365d7a5a
 これは私も気になります。さらなる議論の進展を望みます。