『悪魔はすぐそこに』(D・M・ディヴァイン/創元推理文庫)

悪魔はすぐそこに (創元推理文庫)

悪魔はすぐそこに (創元推理文庫)

 本格ミステリについての論説において、私は法月綸太郎に全幅の信頼を置いています。その法月綸太郎が帯で推薦文を書き、さらには解説も書いてるということで、すごく期待して読み始めたわけですが、大満足の内容でした。
 1966年発表の作品なのでいわゆる古典といえるでしょうが、予想通りの落ち着いた雰囲気が前編の空気を覆いつつ、それでいて意外な真相が隠されている手腕には驚くとともに嬉しくなってしまいました。こういうの好きですわー。
 ミステリは登場人物を限定しないと犯人当てゲームが成立しないので、何らかの形で犯人候補を絞ります。その典型にして極端な例がいわゆるクローズド・サークルといわれるものです。嵐の山荘・雪密室などの閉鎖された状況に登場人物たちを閉じ込めて、その中で殺人事件を発生させることで犯人候補を限定しています。ただ、こうした設定にはどうしても不自然さが否めず、ミステリファンなら気にしない(むしろ嬉しくなる)ところですが、一般向けでとしてオススメするには少々躊躇われます。
 そこで、もう少し自然な方法として考えられるのが、社会的な枠(解説いわく”半身内的サークル”)内での事件の発生です。法律用語でいうところの”部分社会の法理(参考:Wikipedia)”のような人的関係内では、トラブルが発生しても関係者以外の関与が排除され、自然と関係者や犯人候補が限られてきます。本書でも、「法律家としての意見ではないよ。大学の一員として助言したんだ。法廷という公共の場で内輪の恥をさらけ出すのは、どんな大学にとってもけっして好ましくはない」(p25)というセリフがあるように、組織の内部を舞台にすると登場人物を容易に限定することができます。そんな部分社会論も、殺人事件の発生によってその閉鎖性が破壊されます。既存の秩序の崩壊が混乱を生じさせますが、そこから真相の究明を通じて新たな秩序の構築・回復が図れるか否かも、読者にとって犯人当てゲーム以外の興味の対象となります。本書でも、大学ミステリとして複雑な人間関係や大学事務運営、セクハラ、人格と能力の乖離とか、そういう影の部分がミステリらしく淡白に描かれながらもしっかりと押さえられているので、とても面白く読むことができます。
 犯人当てゲームとしてみたときには、三人称による複数視点からの語りが見事です。この点については巻末の法月解説において、ディヴァインを絶賛していたクリスティの某代表作と比較して絶賛されていますが、比較せずとも素晴らしい出来だと思います。複数人の視点によって、事件の全貌が少しずつ読者に語られるわけですが、それによって事件の多面性というものが浮かび上がってきます。それによって登場人物の多面性をも浮かび上がらせることにもなってきて、そのことが結末で読者にとても印象的な余韻を残すことにつながってきます。現在の事件が過去のスキャンダルに光を当て、その照り返しの光が現在の事件にも影響を与えます。過去と現在とが共振し合うことで真実が明らかになる過程もまた鮮やかです。
 けれん味のない実直な仕掛けによる驚きの演出は、それを引き出す作者の技巧を味わうのに打って付けです。非常に完成度の高い本格ミステリだと思いますが、一般向けとしても十分通用する面白さだと思います。広くオススメしたい一冊です。