『中途半端な密室』(東川篤哉/光文社文庫)

中途半端な密室 (光文社文庫)

中途半端な密室 (光文社文庫)

「すなわちこれは『不可能ではない、だが不可解だ』ということですよ」
(本書p16より)

 『謎解きはディナーのあとで』で大ブレイクした著者のプロ作家デビュー前*1に発表された4編を含む5編が収録された短編集です。「中途半端な密室」(『本格推理(8)』収録)「南の島の殺人」(『本格推理(12)』収録)「竹と死体と」(「新・本格推理01」収録)「十年の密室・十分の消失」(「新・本格推理02」収録)有馬記念の冒険」(「ジャーロNO.12 2003 SUMMER」収録)といったラインナップです。
 これらの作品はいずれも、新聞記事だったり友人からの手紙だったり伝聞だったりと、事件の現場に直接赴くことなく推理が行われ真相が明らかとなる、いわゆる安楽椅子探偵(アームチェアディテクティブ)という趣向が採用されています。もっとも作中では、安楽椅子探偵について以下のような指摘がなされています。

 世の中に氾濫しているミステリの中には、いちおう安楽椅子探偵をうたっているものも多いが、その中身には失望させられることが少なくない。なぜか。
 そもそも新聞記事から得られる情報に限りがあるのは当然のこと。その少ない情報量を推理で補って結論を導き出すのが安楽椅子探偵の腕前(あるいは作家の腕前)なのだが、なかなかそううまい具合に物語は進んでいかない。
 仕方がないので、作家は新聞記事よりはもう少し情報の多い人物(刑事とか新聞記者、あるいは被害者の家族や恋人)を探偵役の相棒に起用して、話を運びやすくする。別にアンフェアとはいえないが、あまりやりすぎるとおかしなことになる。
 それはそうだろう。安楽椅子に座った探偵役の隣で、事件に精通した刑事が(中略)事細かに説明して聞かせてあげたところで、ようやく探偵役が解決を述べるというのであれば、それこそ《探偵が安楽椅子に座っているだけ》のことであって、普通のミステリと大差ないというものだ。
(本書「竹と死体と」p98〜99より)

 これはなかなかに当を得ていると思います。というわけで、安直な安楽椅子探偵が抱えるこうした問題点が意識された上で、安楽椅子探偵による推理が行われています。不足している情報を求めて現場を捜査するという場面を描くことができない安楽椅子探偵ものは、自ずと問題編と解決編といった二部構成になりやすいです(その点、「有馬記念の冒険」では競馬のレースになぞらえたパラグラフという凝った構成になっています)。こうした構成で問題編での情報量があまりに少ないと、ひらめきが頼りのクイズやトンチになりかねません。なので、安楽椅子探偵ものでは、少ない情報から推理によって情報を生み出し、それを元に真相までの論理を組み立てるという作業が求められることになります。つまり、創造と想像とが安楽椅子探偵の妙味ということになります。
 また、新聞記事や友人からの手紙といった「作中作」の構成であれば、”行間を読む”という作業も重要になります。通常のミステリで”行間を読め”などと言い始めると、ともすれば叙述トリックみたいになってしまって、場合によってはフェア/アンフェアの問題が生じることになります。ですが、「作中作」であれば読者と登場人物は同じ視点で事件に挑むことができます。
 本書ではそんな創造と想像と行間を読むことによる推理の面白さを探偵役とワトソン役のユーモアに満ちた掛け合いによって堪能することができます。500円というワンコインな価格設定*2どおり気楽に読めて、それでいて充実した内容の逸品です。オススメです。

*1:本書巻末の光原百合の解説では、東川篤哉のプロデビュー起算時は『密室の鍵貸します』刊行時とされていますので、それに準じることにします。

*2:ただし消費税率の変更によってはこの限りではありません。