『時の地図』(フェリクス・J・パルマ/ハヤカワ文庫)

時の地図 上 (ハヤカワ文庫 NV ハ 30-1)

時の地図 上 (ハヤカワ文庫 NV ハ 30-1)

時の地図 下 (ハヤカワ文庫 NV ハ 30-2)

時の地図 下 (ハヤカワ文庫 NV ハ 30-2)

 原本より複製が勝るというのは、どんなからくりだろう? 答えは簡単だ――時の流れのしわざである。それは生々しく沸騰する〈現在〉を、〈過去〉という名の、もはや手直しはできない完成品の油絵に変えてしまう。人はつねに筆のおもむくままに無我夢中で絵を描くが、全体をながめられるだけ遠ざかって初めて、その意味を理解するのだ。
(本書上巻p31より)

 1896年のロンドンを舞台とした三部作構成のSFであり冒険小説でもあり恋愛小説でもありサスペンスでもあるオールレンジな作品です。
 恋人を「切り裂きジャック」に惨殺された大富豪の息子アンドリュー。失意の底にある彼に従兄弟が持ちかけたのが、その頃ちょうど話題となっていた2000年へのタイムトラベル・ツアーを催す時間旅行会社に相談すること。すなわち時間を遡って切り裂きジャックから恋人を救おうというものであった。しかし、時間旅行会社ではあくまで旅行できるのは2000年のみで過去に行くことはできないと断れる。そこで二人は『タイム・マシン』を発表したH・G・ウエルズの力を借りることにするのだが……。これが第一部です。時間旅行作品の嚆矢である『タイムマシン』が発表された直後が舞台なため、当然のことながら時間旅行についての理解や議論は世間一般に浸透してはいません。タイムパラドクスやパラレルワールド(平行世界)といった概念も、その時代としては極めて新しいものです。それゆえに初心者向けのSFであるといえます。反面、本書の物語について、明らかに外側から眺めてメタ的な視点から語る「語り手」の存在は小説を読み慣れていない方には奇異に思われるかもしれません。実際奇異な存在です。この「語り手」がいったい何者なのかが本書全体を通してのひとつのテーマとなります。小説における時間の伸張と省略、主観時間と客観時間の乖離と、そのことの小説上での表現などなど。筒井康隆の『虚人たち』などの”超虚構”を思わせる表現がそこかしこになされています。
 上流階級の娘クレアは、2000年へのタイムトラベル・ツアーに参加して、そこで出会った未来の男と奇妙で運命的な恋に落ちる。一方、相手の男もクレアのことを想いつつ、彼女に打ち明けることのできない秘密を抱えたまま彼女と関係を持ってしまう。窮地に陥った彼はこの苦境を乗り切るべくH・G・ウエルズに相談するが……。これが第二部です。タイムトラベル・ツアーの舞台裏は?なぜウエルズに相談することになったのか?そうした疑問については実際にお読みいただくのが一番です。ウエルズはこの後の1898年に『宇宙戦争』という有名な作品を発表しますが、この作品は後にちょっとした騒動を巻き起こしています(宇宙戦争 (ラジオ) - Wikipedia)。あとで考えれば信じられないようなことでも意外と信じられてしまうことはある、という逸話だといえます。
 謎の武器。現代にはない、まるで未来の武器によって胸に大きな穴を開けられた死体が発見される。事件の調査を開始したウエルズはそこで信じられないものを目撃する。なんと、現場の壁に彼が書き上げたばかりでまだ誰も知らないはずの小説『透明人間』の冒頭が記されていたのだ。さらに、同じ武器によって殺されたと思しき殺人事件が発生する。いったいこれらの事件の真相は?そしてウエルズとの関係は?これが第三部です。第一部と第二部はそれぞれ単独でも読めますが、それらを踏まえた上での第三部です。今まであまりSF色の強くなかったこの作品が、第三部によってSF色を一気に強めます。ウエルズだけでなくヘンリー・ジェイムズやブラム・ストーカーも登場しますので”文学少女”にも嬉しい試みだといえます。
 タイトル『時の地図』の意味。「語り手」の正体。そして、もうひとつの未来の情景がそこはかとなく『透明人間』――見えないけれど存在する者を思わせる、哀愁の中に希望を抱かせる結末……。人間模様の機微を細やかに描きつつも大胆な構図と仕掛けにによって壮大な『時の地図』を描き出す筆力は見事のひと言に尽きます。多くの方にオススメしたい作品です。