『私の男』(桜庭一樹/文春文庫)

私の男 (文春文庫)

私の男 (文春文庫)

 これまで言葉にされたことがないことってあると思うんです。男女の間でも、家族の間でも。日本にもともとLOVEという概念はなかった、という話がありますけど、わかるなあ、と思うんです。「愛」という言葉を当てたときから、それまで名付けようのなかった概念が確認された。それと同じように、家族の情愛と男女の愛情がごっちゃになってしまった感情を名付けようとしたら、「私の男」と名付けるしかなかった。
 私はこの小説で、ふだんあまり意識されていないことに名前を与える行為をしたかったんだと思います。そのために、かたちのないもの登場人物たちを作って、人間のかたちを与える作業をしました。それはこれまで書いてきた小説とは違う重さのあることでしたね。
楽天ブックス|著者インタビュー 桜庭一樹さん『私の男』より

 第138回直木賞受賞作品。
 9歳のときに震災*1で家族を失った竹中花は、親戚の腐野淳悟に引き取られ養子となる。それが始まり。そして結末。2008年から始まり1993年で終わる、親子であり恋人であり共犯者である、二人の男女のインモラルな物語です。
 『ゼロ時間へ』(アガサ・クリスティ/ハヤカワ文庫)という作品があります*2。殺人は結果であり物語はその以前から始まっている。ゆえに推理小説はその殺人か起きる時間、すなわちゼロ時間に向かって集約されるものでなければならない。というコンセプトに基づいて書かれた作品です。そうしたコンセプトをある意味において忠実に再現しているのが本書です。すなわち、本書は二人の別れから始まり出会いで終わるからです。二人が出会った瞬間こそ、物語のゼロ時間に他なりません。
 普通の小説は、字数が積み重なるごとに時間が経過していきます。ですが、6章構成の本書はそうした常識に逆らっています。2008年6月から章が進むごとに2005年11月、2000年7月、2000年1月、1996年3月、1993年7月と時間が遡ります。そうした普通とは異なる構成が、普通ではない二人の男女の関係を描く本書の物語に妙にマッチしています。
 ネット上でも指摘されているとおり、本書は夢野久作『瓶詰地獄』*3を思わせる構成と内容です。過去へと遡る構成。そして姉妹の愛。

 ぶつぶつと独り言と、瓶が砕けて割れる音。
(本書p30より)

 ただ、『瓶詰地獄』が無人島での出来事、まさに瓶詰の地獄であるのに対し、本書はより広い世界での地獄です。章ごとに視点人物が変わる一人称多視点による描写によって二人だけでなく他者からの視点からも加わることで、二人の絆の歪み、不快さ、不自然さといったものも描かれています。
 ミステリアスな構成で語られるのは、なぜ二人は出会い親子となり、そしてこうした関係を築くようになったのか。過去に犯した事件の真相とは。そして、「私の男」である腐野淳悟の深層は? それは玉ねぎの皮を剥くようなものかもしれません。
 ケレン味のある構成とは裏腹に、暗く静かで濃密な物語です。オススメです。

ゼロ時間へ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

ゼロ時間へ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)