2011年3月11日、何をしたかの自分メモ

※この記事は2011年3月21日に書きました。
 2011年3月11日14時46分の東北地方太平洋沖地震に端を発する「東日本大震災」の被害を受けられた皆様に、心からお見舞い申し上げるとともに、犠牲になられた方々およびご遺族の皆様に対し、深くお悔やみを申し上げます。
 フジモリ自身は当日、東京に出張しており「東京の静かなパニック」を経験しました。
 阪神大震災震度7で被災したときに比べると、東京での出来事は「たいしたことはなかった」ですが、それでも「この日”以前””以後”」で日本は大きく変わるでしょうから、「何があったか」を5年後10年後に残すためにこの日の出来事を残したいと思います。
3/11 14:46 東北地方太平洋沖地震
 このとき、虎ノ門の喫茶店にて打ち合わせをしてました。ビルが制震構造だったので思ったほど揺れず、お店のグラスが倒れそうになるぐらいでした。
   15:00 喫茶店を出る。この時点ではこんな大きな震災だったとは気づかず、JR新橋駅に向かう。道すがら街頭のテレビに情報が。被害の大きさを初めて知る。
   15:15 茨城県沖地震
 歩いているときに揺れが。阪神大震災のときも、強い余震が何度も何度も来たという経験則から、大きなビルの中に隠れる。立つのが大変なほど揺れる。
   15:30
 「まだライフラインは無事だな」「交通網は止まったな」と長期戦を覚悟。知り合いにメールしたあと、まずは銀行でお金をおろす。現金は武器です。(ATMの停止やカード払いストップの可能性あるので、現金を持つに越したことはないと判断)
 次に、大阪の事務所に電話(なぜか通じた)。東京の交通網が完全にストップしたことを確認。
   15:45
 虎ノ門にあるアイヨシの弟が経営している喫茶店を訪ねる。弟さんの無事を確認。知り合いからの連絡待ちのため、コーヒーを飲んで時間を潰す。twitterのタイムラインで状況を把握。メールエラー相次ぐ。
   17:00
 連絡が来ないが装備を整えるため店を出る。とりあえず長期戦の体力を蓄えるため早い夕飯を。結果的にこれが功を奏す。
   17:30
 ヤマダ電機で携帯の充電器を購入。大部分売り切れていたが、フジモリが持っていたのはiphoneだったのでなんとか在庫がある。全部で5000円もしたが背に腹は変えられない。
   18:00
 知り合いから連絡が来る。大崎駅の友人の家に非難しているらしい。今日は帰れないのでフジモリも非難させてもらえるよう返信。しかしケータイメールは全く通じず。一番つながる方法はケータイからwebメールでやりとりすればよかったかなぁ、とあとにして思う。
   18:10
 新橋駅から大崎駅までの道をgoogleにて検索。意外と近いことに安堵。道路も大渋滞だったので徒歩移動を決断。
 iphoneの「googleMap」を活用。GPSとジャイロで自分の位置がわかるので初めての道も安心。
 しかしながら歩道は帰宅難民であふれ通勤ラッシュ並みの混みよう。また、コンビニはおにぎりとパンと携帯充電器が軒並み売り切れ。それでも黙々とレジに並ぶサラリーマンたちを見てると東京の被害はそれほどでもないなぁとほっとする。ただし吉野家などのファーストフード店ははんぱなく混んでいる。事前に夕飯を食べてよかったなぁ、と安心。
 目的地まで黙々と歩く。寒さのなか、twitterのタイムラインを見て寂しさを紛らわせる。すごいよtwitter
   20:00
 大崎駅到着。電気も一部消えているせいか、体感的に夜中12時ぐらいに感じる。知り合いと合流し、余震に何度か起こされながら一泊。
3/12 11:00
 電車が一部とおっていることを確認。朝早くは東京脱出組でラッシュがすごいだろうと判断、昼前に出発。
 しかしながらまだ電車は混んでいる。
   13:00
 東京駅到着。昼食をとる。ケータイで新幹線のチケットを購入。みどりの窓口は長蛇の列。
   14:30
 東京駅出発。大阪に帰還。



 被災者の方々とは当然比べ物にならない大変さですし、いろいろと幸運があったことも確かですが、それでも阪神大震災被災の経験から「自分のライフライン」と「都市の交通網が麻痺した場合の行動パターン」については経験則を活かせたのではないかと思っています。
 あとは、帰ってからの行動ですが、「義捐金は受け入れ態勢が整ったらすぐにでも」「献血は最初のピークを避けて第2派で」「安全圏にいる人はパニックを起こさない。デマは絶対に自分でストップさせるぐらいの気概で」という基本事項を意識してました。
 自身の気持ちの整理がつき次第、当blogも通常運転に戻ってきますが、阪神大震災と同じく、このときの出来事とこのときの気持ちを風化させないために、あえて記事として残したいと思います。