『ボートの三人男』(ジェローム・K・ジェローム)

ボートの三人男 (中公文庫)

ボートの三人男 (中公文庫)

 ときには、われわれの苦痛があまりにはなはだしく切実なことがある。そういうときぼくたちは、黙って《夜》の前にたたずむだけだ。なぜなら、そんな苦痛を言い表すための言葉は、ただ吐息だけなのだから。《夜》の心には、ぼくたちに対する憐れみがあふれている。痛みを拭い去ってくれることは彼女にはできないけれども、しかし手をさし伸べてぼくたちの手を握る。すると小さな世界は、われわれの下でさらに小さくなり、さらに遠のき、そしてわれわれは彼女の暗い翼にのせられ、たちまちにして、《夜》という存在よりももっと大きな実在へと至るのである。この偉大な実在の輝かしい光を浴びて、あらゆる人間生活は一冊の書物のようにわれわれの前に開かれる。そしてわれわれは悟る。苦痛と悲しみこそは神の天使に他ならぬことを。
(本書p166〜167より)

 『犬は勘定に入れません』(コニー・ウィリス/ハヤカワ文庫)が本作へのオマージュとのことなので前から読みたいと思っていたのですが、このたび新装版が刊行されましたので、これ幸いとばかりに読んでみました。
 読んで思ったのが、『犬は〜』のボートのパートについては本書をかなりオマージュしているなぁということです。『犬は〜』の最初の方はネッドの頭がハッキリしていないこともあってとても読みにくいのですが、本書の物語が頭に入ってると、そうした読みにくさもかなり緩和されるものと思われます。なぜなら、本書で描かれている3人と1匹のボートによるテムズ河の旅はツッコミ不在のボケ倒しです。現在進行形の旅についてばかりではありません。本書の大半は回想シーンで占められているのですが、そこで語られる過去のエピソードもまたボケ倒しです。
 本書の巻末には、筑摩書房版に収録されていた訳者(丸谷才一)による訳者あとがきを引用しながらの井上ひさしによる解説が付されています。それによりますと、本書はユーモア小説として着手されたのではなくテムズ河についての歴史的および地理的な展望の書として目論まれたものであるとのことで、それは読めば確かに納得です。ですが、読み応えとしては歴史的地理的な展望書としてよりもユーモア小説・滑稽小説としてのそれの方が勝ります。井上ひさしは本書解説においてユーモア小説について次のように述べています。

では、ユーモア小説に不可欠の「たしかな人生観」とはなにか。ユーモア作家は、人生の矛盾や世の中の穢さや賤しさにめげずに人生の意義を認めなければならぬ。醜悪なるこの現実にあって愛は不毛であると認識しつつ、しかし同時に愛の可能性を信じなければならぬ。この世の不条理を深く嘆きながら、一方ではその上に超然と居直らねばならぬ。ひとことで言い尽せば、両極に足をしっかりと踏まえてバランスをとりつつ、躰の中心は常に両極の真ん中に置くようにしなければならない。
(本書解説p319より)

 ドタバタ旅行に不条理な回想といったものが語られつつ、その一方でテムズ河は泰然と流れ続けます。ユーモア小説の古典として広くオススメの一冊です。
※ちなみに、本書には以下のような記述があります。

 有名なメドメナム僧団、すなわち普通には「地獄の炎クラブ」と呼ばれている所のものは、あの悪名高いウィルクスもその一員だったが、「汝の欲することを為せ」がモットーである宗教団体で、この文句は今日もなお、僧院の半ば廃墟と化した門に掲げてある。
(本書p207より)

 これってもしかして、「ソードワールド」や「ロードス島戦記」などの世界観フォーセリアの暗黒紳ファラリス(ファラリス - Wikipedia)の教義「汝の為したい様に為すがよい」の元ネタかしら?だとしたら初めて知りました(笑)。