『リックの量子世界』(ディヴィッド・アンブローズ/創元SF文庫)

リックの量子世界 (創元SF文庫)

リックの量子世界 (創元SF文庫)

「とにかくこれは、別の文脈でよく使われる表現を借りれば」彼は満足のいく食事を終えた者の、ゆったりした表情で締めくくった。「不思議な古い世界、ですよ」
(本書p191より)

 『リックの量子世界』という邦題と『THE MAN WHO TURNED INTO HIMSELF』という原題から明らかですが、本書は平行世界が主題となっているSF作品です。とはいうものの、SFとしてはそんなにハードなものではありません。そもそも平行世界というモチーフは、今となってはすっかりありきたりなものですので、”多世界解釈”や”量子理論”といった単語がでてきても、そんなに敬遠されることもないでしょう。
 平行世界の物語において、A世界からB世界へある人物が移動したとき、はたしてその世界には同一人物が存在することになるのかどうか、という問題がありますが、本書の場合には、ひとつの肉体にふたつの精神が宿ることになります。愛する妻と子供がいて仕事も充実していて満ち足りた生活を送っていたリック。そんな彼が、ある日異様な感覚に襲われて事故に遭いそうな妻を助けに行ったら、気がつくと事故に遭っていたのは妻ではなく自分で、しかも自分ではない自分の中に別意識として同居することになって……。はたしてリックは元の世界に戻ることができるのか?というお話ですが、それは同時に、彼自身を取り戻すことができるのか?ということでもあります。
 ひとつの体にふたつの意識という状態を他者から見ると、常識的には統合失調症や多重人格といった精神的な問題とされてしまうのも無理からぬことでしょう。そこでリックが直面することになるのは、他者にとってと自分にとっての世界観の違いであり、”本当(正気)の世界”とはいったい何なのかという解釈の問題、つまりは心の問題です。
 また、元の世界(?)のリックと図らずも同居することになってしまったリック(リチャード)とでは仕事も生活スタイルも異なって、それより何より妻との関係・家庭の有り様といったものが異なります。幸せな家庭を持ちながらもふとしたときに抱く不安といったものが実現されてしまっている世界。多世界解釈というものは、SF的には量子理論といったものが背景になっているのは間違いありませんが、小説的にはこうした不安や疑心といったものが背景にあるといえます。本書はそんな家庭・夫婦についての昼ドラっぽさを兼ね備えた物語でもあります。
 とはいうものの、本書はやはりSFです。平行世界という題材は、まず時間旅行があって、そこから生まれるタイムパラドクスの解決のための手法として用いられることがあります。つまり、時間旅行→平行世界という流れが一般的だと思いますが、本書の場合には、平行世界→時間旅行という構成になっています。そこがSFとして本書の独特の面白さではないかと思います。
 うえお久光『紫色のクオリア』とかが好きな方であればオススメしてもいいかなぁと思ったり思わなかったりな一冊です。