『あなたのための物語』(長谷敏司/ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

あなたのための物語 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

あなたのための物語 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

 サマンサ・ウォーカーは死んだ。
 ”死んだ”とは、サマンサというひとりの人間が生きていたということだ。
 死は、人間が言語を使いはじめて文化の歩みを進める中、常に無為であり続けた。そして今後も無為な断絶であり続ける。
 生きる者は、ひとしく死を共有する。この共有される終着の弾劾に、だが、よろこびを見出すのは難しい。死が、ただ身体の問題として個々人に訪れるためだ。幸福の絶頂にある百人が同時に死んだとしても、個別の死はそれぞれ孤独に死なれる。この死には、何を持ち寄ることもできず、その先に何を築くこともない。
(本書p3より)

 サマンサ・ウォーカーは脳内に擬似神経を形成することで経験や感情を直接伝達する言語―ITP(Image Transfar Protocol)の開発・研究を行なっていた。ITPテキストによる仮想人格《wanna be》を誕生させ。自らの脳内にもITPを移植したサマンサ。しかし、その移植手術の際の検査によって彼女の余命が半年であることが明らかとなる。残された命を研究に費やすサマンサ。そして、彼女のために物語を作り続ける《wanna be》……といったお話です。
 主人公の死が最初の一行で明示されている本書は、結末ではなくそこに至るまでの過程に意義を見い出す物語であるといえますが、死を結末と無条件に同一視できる点に、人生と物語の関係性を見い出すことができるでしょう。
 やれお涙頂戴だの陳腐だのいわれようと、主人公、あるいはその恋人が死に至るまでの過程が描かれたいわゆる”難病もの”は人の心を常に捉えます。それは、物語に触れるという行為が本来的には孤独なものであり、その点でも死との共通性・親和性があるからだといえます。
 小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思いますとは北村薫の言葉(『空飛ぶ馬』の単行本版より)ですが、”小説”を”物語”に置き換えても同じことがいえると思います。では、物語を必要としないコンピュータが物語を書く存在として作られたとき、いったいそのコンピュータはどうなるのでしょう?
 サマンサはずっと研究に没頭してきました。どこまでも仕事人間であった彼女は両親とも疎遠で恋人も親友もいません。難病によって死にゆく定めにありながら彼女の残り少ない人生を支えてくれる人物は誰もいません。そんな彼女を支えてくれるのは研究だけです。彼女によって作られた《wanna be》は彼女のために物語を作ります。二人の関係は微妙です。創造主と造造物としての関係であり作者と読者としての関係でもあります。そして……。
 肉体があるから彼女は苦しみます。肉体があるから彼女は死ななくてはなりません。ですが、そんなに肉体が”彼女”の存在の拠り所でもあります。ハードなくして存在し得ない情報集積体としての”彼女”。ITPの開発はそんなハードの個人差を無視した脳内情報の一元管理を可能とします。”人間のOS”として個人という枠を飛び越えることができます。そんなITPに立ちはだかる”感覚の平板化”の問題。そこでは死を通じての個人と社会の関係性が問い直されることになります。
 物語が人生に奉仕するための存在であろうとするならば、”誰かのための物語”であろうとするならば、物語は完結しなければなりません。そうすることで、読者の中にひとつの物語として残るのです。だからこそ、本書は”あなたのための物語”なのです。人間は死すべき存在であるから物語は完結しなければならない。人生と物語はそうして円環しているのだと思います。