瀬川深『ミサキラヂオ』早川書房

ミサキラヂオ (想像力の文学)

ミサキラヂオ (想像力の文学)

なにしろあてにならないラジオだった。ラジオ局の配布する番組表に舌を出すかのように、ラジオは気まぐれに思い思いの音を流した。どんな音楽が流れ始めるか、どんな声が語り始めるかは、スイッチをひねるまで誰にも分からなかった。
(P7より)

『チューバはうたう mit tuba』で第23回太宰治賞を受賞した瀬川深による、初の長編小説です。

半島の突端にあるこの港町には、ここ半世紀景気のいい話などなかった。だが、演劇人くずれの水産加工会社社長が、地元ラジオ局を作った時、何かが少し変わり始めた。土産物店主にして作家、観光市場販売員にしてDJ、実業家にして演歌作詞家、詩人の農業青年、天才音楽家の引きこもり女性、ヘビーリスナーの高校生――番組に触れた人々は、季節が移り変わる中、自分の生き方をゆっくりと見出してゆく。自分勝手な法則で番組と混沌とを流し出す奇妙なラジオ局のおかげで……。
ハヤカワ・オンラインあらすじより

というお話です。
「想像力の文学」というレーベルは、SFマガジン元編集長である塩澤快浩により設立された*1文学作品レーベルであり、「既存の「ジャンル」というマーケットから零れ落ちる作品」*2を意識した叢書です。
実際、本作を読んでも、他のラインナップを見ても、SF、純文学、ミステリ、ホラー、などなど、どのカテゴリーに類したらよいか判断しかねる作品群です。
しかし、だからこそ、こういった作品が市場に出るという意義もあるのかと思います。
本書『ミサキラヂオ』は、港町のラジオ局を舞台とした群像劇です。
ラジオを通じ、様々な人々の「思い」が展開され、また伝わっていく物語です。

Q.今後どのような作品を書いていきたいと思いますか?
A. いま新幹線の中でこの文章を書いてるんですが、隣では六十ぐらいの老夫婦が熟睡しています。斜め前の四十歳ぐらいの男性は「成功者になる方法」みたいな啓発書を読んでいますが、途中で飽きて寝始めた模様です。反対隣の三十路過ぎカップルは仲むつまじいことこの上なく、男性がエロいギャグをかまして女性のラメ入りマニキュアの爪でつねられたりしています。あ、さっき停まった駅から若い女の子が乗ってきました。ちょっと垂れ目気味ですが、アイラインにただごとならず気合いを入れています。後ろでは多分スキー帰りのオッサンたちがすごく楽しそうに酒盛りをしています。窓の外に目をやると、カレーのチェーン店と車の量販店とパチンコ屋とラブホテルが見えました。もう少し遠くにはマンションが見えて、川に架かる橋が見えます。その川の先には、太平洋が広がっているのでしょう。
 そんな小説を書いていきたいです。
筑摩書房 チューバはうたう 作者インタビューより

まさにこのインタビューに書かれているように、カメラが登場人物たちを追うかのように、次々と客体が切り替わる文体は読んでいて非常に小気味が良いです。
「キャラクター偏重主義」に真っ向から立ち向かうがごとく、登場人物たちのほとんどは名前が明かされません。
しかし彼ら(彼女ら)は実に生き生きと港町で「生活して」います。
『チューバはうたう mit tuba』もそうだったのですが、作者・瀬川深の文体は非常に特徴的で、読者を試すかのように流れるように進み、ころころと場面が切り替わります。舞城王太郎も読点句点を廃し叩きつけるようなリズム感、躍動感ある文体なのですが、こちらはジャズを聴いているかのごとくポップな躍動感です。
『ミサキラヂオ』はまた、会話の「」(鍵括弧)が一切使われていません。非常に特徴的な文体であり、「文章を味わうためにページをめくる」ほどの筆力を持った作品であるとも思います。
港町を舞台としたラジオを中心に紡がれる物語ですが、またこの「ラジオ」という媒体が物語の深みを増します。
ほのかに、しかし確かに「世界につながっている」という絶妙の距離感。
これは深夜ラジオなどを愛聴された方なら理解いただけると思うのですが、自分のハガキが読まれたときのくすぐったさと誇らしさ、それはラジオを通じてまだ見ぬ世界とつながったことによる高揚感からくるのかと思います。
人々は確かにこの作品の中で生き、そしてつながっている、読みながら彼らの姿が浮かび上がってくるかのような作品です。
はっきり言ってストーリーには大きなうねりもなく、また非凡なキャラクターが存在するわけでもありません。読む人にとっては退屈極まりないお話かもしれません。
しかし本書を読んでフジモリは物語には惹きつけられ、感動させられたことも事実です。
万人にお勧めできる作品ではないかもしれませんが、良質の音楽を聴いたかのような満足感を味わえた一冊でした。
瀬川深『チューバはうたう mitTuba』筑摩書房 - 三軒茶屋 別館

*1:間違ってたらすみません。

*2:2009/10/10京都SFコンベンション「想像力の文学とは何か―リアル・フィクション再び?」より。