『中庭の出来事』(恩田陸/新潮文庫)

中庭の出来事 (新潮文庫)

中庭の出来事 (新潮文庫)

 人々は、見ることで消費する存在であるのと同時に、見られることで消費される存在である。見る者と見られる者は、いつなんどきひっくり返っても不思議ではない。外から鑑賞する目と内から鑑賞される目を持ってしまった現代人は、その二つの目に引き裂かれたままになっているのだ――
(本書p298より)

 第20回山本周五郎賞受賞作品です。
 瀟洒なホテルの中庭で脚本家が謎の死を遂げる。容疑はそのパーティで発表予定だった芝居『告白』の主演女優候補三人に絞られる。警察は女優三人に脚本家の変死に関わる一人芝居『告白』を演じさせようとするが……という設定の戯曲『中庭の出来事』を執筆中の劇作家がいて……といった内容の、芝居とミステリが融合したメタ・ミステリです。
 恩田陸のミステリといえば、あまりミステリっぽくないものを想起される方も多いかと思われますが、本書もその例に漏れません。その意味では、清く正しい恩田ミステリだといえます(笑)。重層的で思わせぶりな語りは、人間と物語の多面性を描き出しますが、そこで語られている出来事は何かといえば、作中と現実(?)で起きた毒殺事件に過ぎなくて、しかも通常の意味でのミステリ的解決を期待すると拍子抜けすること間違いなしです。なので、好みが分かれるであろうことは否めません。ですが、例えば最初に「女」や「男」としか記されていなかった人物たちに、やがて名前が与えられていくという繰り返しの手法は、まるで下書きした絵に色が塗られていくようで面白いです。また、ト書きで語られている作中劇『中庭の出来事』の人物たちの描写の方が、外側の人物たちよりも活き活きと描写されているのもまた面白いです。人は日常的に何かを演じています。そうした日常的な演技によって作られる虚構は果たして本当に虚構といえるのでしょうか? 演技によって生じる感情は偽りなのでしょうか?
 現代人についての、鑑賞する目と鑑賞される目という視点の分裂という指摘は、まさしくその通りでしょう。だからこそ、本読みは読書という孤独な趣味に興じることによって消費することにのみ努め、消費されることから逃れようとします。そんな読書の中にあってわざわざ視点の分裂を指摘されては読者も不安になるというものです、しかしながら、それこそが作者の狙いなのです。
 メタ・ミステリといっても、単純なメタではありません。内と外といった単純なレベル分けがなされているわけではないからです。メタ・フィクションであれば、内側が虚構で外側が現実というのが通常ですが、本書の場合にはそれもまた曖昧です。フィクションとメタ・フィクションの混濁。虚実の混濁。スパイラルする物語構造はどこまでいっても読者を安心させてはくれません。
 作中で偽証が問題となります。自分が憎いと思っている人物が犯罪を犯したときに、それを偽証によってかばう場合としてどのような事例が考えられるか、というものですが、そもそも偽証とは何でしょうか? 刑法的にいえば、偽証とは刑法169条によって定められている行為*1ということになりますが、虚偽の意義については主観説と客観説が対立しています。主観説は、証人の記憶に反することを陳述することを虚偽と解する*2のに対し、客観説は客観的に真実に反することを陳述することを虚偽と解します。しかしながら、真実が何なのかも分かっていないのに、両者の間に果たしてどれだけの違いがあるでしょうか?
 最後になって本書で作者が行なおうとした目論見が明かされます。小癪といえば小癪ですが、メタ・ミステリとしての意欲作として評価してよい結末だと思います。「劇的」な物語が読みたい方にオススメです。
【参考】『中庭の出来事』刊行記念インタビュー 虚構と謎をめぐる物語 

*1:刑法第169条(偽証) 法律により宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは、3月以上10年以下の懲役に処する。

*2:判例