『切れない糸』(坂木司/創元推理文庫)

切れない糸 (創元推理文庫)

切れない糸 (創元推理文庫)

 突然の父の死によって家業のクリーニング店を継ぐことになった新井和也。不慣れな集荷作業で預かった衣類から生まれる不思議。同じ商店街の喫茶店で働く沢田直之やアイロン職人シゲさんなど周囲の人に助けられながら成長していく和也の姿を描いた”日常の謎”の系譜に連なる青春ミステリです。
 シャーロック・ホームズは観察眼に優れた探偵として知られていますが、その人の汗や生活の汚れが付いた衣類を否応なしに細部まで観察しなければならなくて、さらにはそれによって衣類を持ってきた人物の素性を特定できてしまうクリーニング店という職業は、私たちの身近にいるホームズみたいな存在だといえるのかもしれません。

「だって、何百着っていう服を預かって洗ううちに、クリーニング屋は恐ろしいほどの個人情報を手に入れることができるんだぜ? ここの家は何人家族で、太ってるか痩せてるか、子供がいるかいないか、ポケットの取り忘れたレシートを見れば、昨日どこで飲んだかまでわかる」
(本書p98より)

 2003年に個人情報保護法が成立して以来、事業における個人情報の取り扱いは慎重であることが求められるようになりました。事業者と顧客とが見ず知らずの関係であれば、そうした情報については一切外部に漏らさずに公私の区別さえしっかりすれば特に問題はないでしょう。ところが、クリーニング店のように店と顧客とが対面して、さらに商店街という互いに生活を支えあっているコミュニティの中で営んでいる仕事となれば、預けられる衣類から推察される事情に対してまったくの無視を決め込むわけにもいきません。クリーニング店のプロとしての態度が問われます。
 もっとも、本書は基本的な構造がミステリなので、結局は衣類から浮かび上がってくる謎を解決することになるのですが、ともすれば、やはり仕事上の関係を越えた出すぎた介入になりかねません。それが余計なお節介とならずにすんでいるのは、単に顧客としてだけではなく、商店街というコミュニティに住む人物として正面から向き合って悩みごとを解決しようとする姿勢があればこそです。
 仕事上の関係、商店街の住人としての関係、親子の関係といった切っても切れない人間同士の関係が本書の要諦です。物事の見方がステレオタイプ過ぎる点がたまにありますし、ロジックを重視するタイプのミステリではないので理屈で考えると僅かに不満も残ります。ですが、そうしたトラブルを経験することによって、和也はクリーニング屋として少しずつではありますが確実に成長していきます。作中の至るところで語られるクリーニングについての薀蓄も楽しいですし、青春ミステリの佳品としてオススメすると同時に続編が楽しみな一冊です。