『紫色のクオリア』(うえお久光/電撃文庫)

紫色のクオリア (電撃文庫)

紫色のクオリア (電撃文庫)

クオリア(英:複数形 Qualia、単数形 Quale クワーレ)とは、心的生活のうち、内観によって知られうる意識の現象的側面(現象的意識)のこと、またはそれを構成する個々の質感のこと。感覚質(かんかくしつ)とも訳される。
クオリア - Wikipedia

 『人間とは何か』(マーク・トウェイン岩波文庫)という対話体評論があります。人間は機械であり自由意志など存在しないと主張する老人と、それを否定しようとする青年との対話で成り立っているこの評論では、人間唯一の衝動として自分自身の安心感という「法則」が主張されています。
 五感の生み出す主観的な体験のすべてにともなう感覚質『クオリア』と人間の唯一無二の衝動。そこに本書の着想の根幹があります。
 自分以外の人間がすべて”ロボット”に見える紫の瞳の少女・毬井ゆかり。そんな彼女の友人・波濤学(女の子です)。本書は波濤学による”あたし”という一人称視点で語られる物語ですが、毬井ゆかりの外見については「非凡」「かわいい」「美少女」とか説明する一方で、自身の容姿についてはたいしたことないとしているわけですが、本当のところはどうなのかは、波濤学という”あたし”のフィルタがかかっていることを意識しないわけにはいきません。
 本書にはライトノベルならではのイラストが付いていますが、イラストでは、毬井ゆかりにしても波濤学にしても可愛らしい女の子として描かれています。しかしながら、実際の女の子がそんなアニメ顔をしているはずもなく、つまりは人間の視覚情報などいとも簡単に誤魔化されてしまうものであり、あるいは、そうした誤魔化しの情報をいとも容易く受容することができるわけです。人間がヒトに見えるかロボットに見えるかというのは、つまるところ”見え方”ではなく”感じ方”の問題なわけですが、それこそがクオリアです。そうした”感じ方”の問題を考える上でライトノベルというのは何気に格好の材料だといえると思います。
 クオリア哲学的ゾンビシュレディンガーの猫。観測されるまで確定しない量子の世界。無限に続く平行世界。無限のトライ&エラー。そして、万物理論。そうしたSF的なアイデアが、百合っぽい友情物語と絶妙に融合しています。あまり語ってしまうとネタバレになってしまうのですが、一人称単元視点という語りの手法が、シュレディンガーの猫における「観測」という事象、あるいは人間原理における「人間とは?」といった問い掛けとして、とても有意に機能しています。
 カバー表紙絵から想像される以上にハードなSFではありますが、それでいて日常の会話や生活感といったものも決してないがしろにされてはいません。グレッグ・イーガンの『万物理論』とかが好きな方には是非読んでもらいたいですが、それ以外のラノベ読みの方にも普通にオススメの一冊です。

人間とは何か (岩波文庫)

人間とは何か (岩波文庫)