『海の底』(有川浩/角川文庫)

海の底 (角川文庫)

海の底 (角川文庫)

 本書は、『塩の街』『空の中』と続く、いわゆる自衛隊三部作と呼ばれる作品群の三作目に当たります。三部作といってもそれぞれ別個のお話ではあるのですが、陸・空・海の自衛隊ものとして読みたければ三作すべて読むのが筋というものでしょう(笑)。
 突如発生した謎の巨大甲殻類の大群。折りしも4月の桜祭りで開放されていた米軍横須賀基地に現れたその大群は次から次へと人を襲っては食べていく。止むを得ない避難先として、たまたま停泊していた海上自衛隊潜水艦『きりしお』に立てこもることになった自衛官と子供たち。救出をひたすら待つしかない彼らだが、閉鎖的な状況下にあって子供たちの間での軋轢がトラブルを招くことになる。一方、巨大甲殻類への対応を巡り警察と陸上自衛隊と米軍との間で駆け引きが生じて……といったお話です。
 物語は、潜水艦内に閉じ込められた自衛官2人と子供たちと、巨大甲殻類の脅威に対応を迫られる警察との局所大所的な2つのストーリーが平行して語られます。このうち、潜水艦内のストーリーについては、閉じ込められている人間の大半が子供ということもあって、解説でも触れられていますが『中学生日記』みたいな人間関係が複雑に入り組んだドラマが展開されます。危機的な状況であるにもかかわらずこれだけ我がままな態度がとれるのもある意味すごいと思いますが(笑)、現代風の嫌なガキの捻くれた内面が存分に描かれる一方で、読んでるほうが恥ずかしくなってくる恋愛模様もあったりで、子供から大人への成長小説として読ませる内容になっています。
 一方で、巨大ザリガニに対して対応を迫られる警察官側のストーリーは、あたかも自衛隊という名のウルトラマンに登場してもらうために科学特捜隊たる警察はいかに善処すべきか、というように理解することができます。なぜなら、自衛隊はそう簡単には動いてはくれませんし、そもそもそう簡単に動かせてはいけないものだからです。
 巨大ザリガニを巡っての警察と自衛隊と米軍との三者の緊張関係は、あたかも有事法制の一例としての思考実験めいた様相を呈しています。「横須賀基地が怪獣に襲われたとしたら自衛隊は銃を撃ちますか?」という問い掛け自体は冗談みたいに聞こえるかもしれません。しかし、例えば領海内に進入してきた”潜水艦みたいなもの”と”巨大怪獣みたいなもの”とでは概念としてどれくらいの違いがあるものなのでしょうか? SFというよりは怪獣ものとでもいうべき非常識的非常事態を扱っているからこそ、常識的な非常事態のあり方というものを冷静に考えることができているのが面白いです。
 自衛隊が武器を使用するための前提として法律で定められている出動命令は防衛出動か警護出動ですが、怪獣の襲来は果たしてそれに当たるのか? あくまで自然災害に対応するための災害出動と理解するのであれば命令自体は容易に出せますが、それでは肝心な武器の使用ができません。現実の危険を目の前にして随分と悠長な議論がされていると思われるかもしれませんが、自衛隊の活動が法律によって厳密に定められて武器の使用が制約されているのもシビリアンコントロールという民主主義からくる理念が取り入れられているからに他なりません。ともすれば右とか左とかのレッテルを貼られがちで忌避されやすい有事法制の議論が、物語の中におけるドラマとして巧妙に落とし込まれているのに感心です。おかげで娯楽小説でありながら読み応え十分です。
 B級映画めいたギミックに現実的な肉付けがしっかりとされたパニックSFの傑作として広くオススメの一冊です。
 ちなみに、本書は2005年に単行本で刊行されたものの文庫版ですが、文庫化に当たりまして番外編である短編『海の底・前夜祭』が収録されています。短編集『クジラの彼』にも収録されてますが、未読の方はこの機会にチェックされるのもよいかと思います。