『トーキョー・プリズン』(柳広司/角川文庫)

トーキョー・プリズン (角川文庫)

トーキョー・プリズン (角川文庫)

柳 : 書きたいから書いている、というよりも読みたいから書いていますね。こんなのがあったら読みたいな、という。自分自身は第一の読者だと思っています。それこそ、読むものがなくなったから書き始めたわけですし。読者の方が楽しめるように、といっても読者、というのがあまりにも漠然としているので、第一の読者は自分、第二の読者が編集者と思っています。
作家の読書道:第82回 柳広司さん | WEB本の雑誌より)

 戦時中に消息を絶った従兄弟の情報を得るために巣鴨プリズンを訪ねたニュージーランド人の探偵・フェアフィールド。彼は調査の交換条件として独房にいる囚人・キジマの記憶を取り戻す任務を命じられます。また、それに付随するかたちで、プリズン内で発生した不可解な服毒死事件の謎も追い求めることになります。
 戦後という混乱からの回復期を舞台とした本書の世界では、ほとんどの登場人物が戦争の加害者であり被害者であるという側面を有しています。そのため、ふと気を抜いてしまうと探偵と犯人の立場も相対的なものになりかねません。探偵小説という趣味で通じ合う登場人物たち。その中にあって、ニュージーランド人という中立的な立場からの主人公の視点でなければ、本書の物語は語り得なかったでしょう。
 戦犯として獄中にいるキジマ。彼には戦中の5年間の記憶が、犯罪として問われている行為を行なった記憶がありません。ゆえに、彼の戦犯としての裁判は停止されています。戦争犯罪を問うためには彼が記憶を思い出し自覚することが必要とされるキジマの立ち位置は、戦争体験がないにも関わらず戦争責任というものを考えさせられる読者の立ち位置と同調するものがあります。
 平時には犯罪的・非人道的行為とされるものであっても、戦中にはそれが許され、さらには奨励されます。そんな戦中の行為を戦後の理屈で処罰する戦争裁判には、どんなに言い繕っても事後法的な欺瞞があることは避けられません。そんな不合理が、ミステリに求められる合理的思考と不協和音を起こしています。それこそがミステリという枠組みで戦争裁判を描くことの意味だといえます。
 因果関係とは原因と結果の関係を意味します。結果から原因をつきとめること、それが探偵行為です。そして、行為には責任が伴います。探偵行為にも犯罪行為にもそれは共通しています。行為と責任の関係は、社会的存在として求められる因果関係だといえるでしょう。
 戦争裁判は戦争行為の責任を問う裁判です。しかしながら、戦前の不完全な日本の民主主義は民主主義を謳いながらも、一方では、”臣民”として国民を扱ってきました。大日本帝国憲法下における自由主義と団体主義のどちらつかずの国体。テンノウの名の下に戦争が行なわれ、テンノウのために兵士たちが死んでいったにもかかわらず、テンノウには本当に戦争責任がないというロジック。にもかかわらず、A級戦犯以下、戦犯は裁かれ処罰されていくという現実。因果を問うミステリのフレームは、行為と責任の関係を問い直す役割もまた担っています。
 獄中での密室トリックや、アメリカ兵の証言にまつわる暗号ものめいた読解のロジックなど、ひとつひとつのトリックは小粒ではあります。しかしながら、そうしたロジックが物語を推進させる力として場を変え品を変え有機的に使われている点がとても面白いです。
 本書は戦後間もない日本を舞台にした作品ですが、柳作品には、他にやはり戦後間もない時代のアメリカを舞台に原爆の開発をテーマにした『新世界』があります。本書を読んだなら『新世界』を、『新世界』を読んだのなら本書を、是非とも併せて読んで欲しいです。