『翡翠の眼』(ダイアン・ウェイ・リャン/ランダムハウス講談社文庫)

翡翠の眼 (ランダムハウス講談社文庫 リ 3-1)

翡翠の眼 (ランダムハウス講談社文庫 リ 3-1)

 文化大革命(参考:Wikipedia)から10年後の中国・北京を舞台に、私立探偵を営む女性・王梅(ワン・メイ)が活躍するミステリです。ちなみに、本書の作者は主人公と同年代の中国生まれの女性です。幼い頃に文化大革命によって両親と共に強制収容所で暮らし、北京大学に通っていたときに学生運動に関わり、六四天安門事件の後に渡米してアメリカの大学で経営学を学んだというその経歴が、本書ではしっかりと活かされています。
 共産主義国家と私立探偵という組み合わせは、原理的に考えるとおかしな組み合わせに思います。なぜなら、全体主義的思想が背景にある以上、個人的な問題を内密に処理するような職業の存在を認めることは、ともすれば自己否定につながりかねないからです。というわけで、中国では私立探偵業は禁止されているのですが、情報コンサルタント業として登録するという公然の抜け道を用いることでビジネスとして成り立っています。

「またそんなことを、王さん。当節、何が合法で何がそうでないと言えます? よく言うでしょう――”党には政策があり、人民には抜け道がある”とね」
(本書p8より)

 共産主義国家に多く見られる風潮として、法の支配の軽視(無視)というものがあります。法律の条文よりも党の方針という目に見えない曖昧なものが力を持ち、それによって人々は翻弄され振り回される。でもそれは何も一般市民に限ったことではありません。時の権力者であっても次の日には犯罪者になってしまっているかもしれない不安。権力が自らの身の安全を保障してくれず、ではいったい何が頼りになるのかといえば、行き着くところはお金ということになるのでしょう。本書の登場人物はお金を稼ぐことに生き甲斐を見い出している人間がとても多くて、それは確かに拝金主義なのかもしれませんが、でもその根本には国家への不信や不安というものがある、ということなのだと思います。そして、お金の動くところには私立探偵の飯の種はいくらでも転がっている。そういうことになります。
 もっとも、私立探偵という仕事の困難さよりも彼女を悩ませているのは、実は彼女の家族や過去の問題だったりします。中国国家警察の公安部に所属していた王梅がそこを辞めた経緯。反りの合わない妹。愛しいと思いながらも反発せずにはいられない母親への想い。そうした過去が、陳おじさんから依頼された仕事が引き金になって彼女を揺さぶります。
 陳おじさんからの依頼。それは文化大革命のさなかに消失したとされる印章です。三国志の英雄・曹操が蔡文姫(参考:Wikipedia)に送ったときに使ったとされる印章・翡翠の眼にまつわるエピソードは、かつて文化大革命の際に王梅たち家族が辿った運命の裏返しでもあります。

 顧平にも誰にも、彼女を慰めるのは無理だった。その不安をなだめることのできる人間はどこにもいなかった。時間が過ぎ去っていく。母さんにまた愛してもらうために必要な時間が、砂のように指の間からこぼれ落ちていった。
(本書p136より)

 確かに王梅が私立探偵として活躍する場面は多くなくて、ミステリしての読み応えはほとんどなくて、そういう意味では不満もあります。ですが、誰に頼ることなく不安を抱え込みながら仕事に打ち込むその姿はまさにハードボイルドです。共産主義という全体主義と私立探偵という一匹狼の個人主義との相克から、今後どのような物語が生まれていくのか非常に興味があります。シリーズ2作目もすでに発表されているとのことなので、ぜひとも翻訳されることを切に願います。