歴史小説や時代小説などについての雑文

歴史ミステリと時代ミステリ

時の娘 (ハヤカワ・ミステリ文庫 51-1)

時の娘 (ハヤカワ・ミステリ文庫 51-1)

 歴史小説と時代小説の区別はときに難しかったりしますが、歴史ミステリと時代ミステリの区別は、とりあえずハッキリとしています。
 歴史ミステリの古典的代表作として知られているのはジョセフィン・テイ『時の娘』ですが、歴史上の事件を謎に見立てて補充的な解釈や新説を提示する物語を指します。一方、時代ミステリといえば、過去のある時代を舞台としたミステリのことを指します。なので、両者は別ではあっても矛盾するようなものではありません。対応関係で考えますと、歴史ミステリと対を成すのは歴史(正史)であり、時代ミステリと対を成すのは現代ミステリ、ということになります。小酒井不木『歴史的探偵小説の興味』(青空文庫)で、

岡本綺堂氏の「半七捕物帳」は私の大好きな歴史的探偵小説の一つであるが、事件そのものよりも、舞台が江戸であるということにいうにいえぬ嬉しさを覚える。

と述べていますけど、『時の娘』のような歴史ミステリの存在を前提にしますと、小酒井不木が述べているような嬉しさは、まさに時代ミステリを読んでるときに覚える嬉しさだといえるでしょう。
 歴史小説と時代小説の区別は難しいのに、それがミステリになると割と簡単に思えてしまうのは、歴史ミステリの場合には安楽椅子探偵、すなわち、探偵役が部屋から一歩も出ることなく机上の推理のみで謎を解決する形式を採ることが多いために、その時代ではなくて現代が舞台となることがほとんどだからでしょう(参考:Kochi's room-mystery-history)。また、小説はあくまで小説であって論文ではない以上、厳密な考証よりも物語としての脚色が優先される場合もある、という考え方もあって、そういう場合には歴史小説と時代小説の境界は曖昧になりがちです(参考:歴史小説 - Wikipedia)。しかし、歴史ミステリの場合にはそうした考証こそがメインであるために物語的な脚色が入ることなく歴史と時代が区別されやすい、ということなのだと思います。

歴史小説と時代小説

 しかしながら、実際のところ歴史小説と時代小説の区別は難しいです。一度考え出すとそうした区別の妥当性そのものについてまで頭を悩ませることになってしまいます。例えば直木三十五『大衆文芸作法』(青空文庫)において、

 時代物は、これを伝奇小説と歴史小説に分類する。
 伝奇物とは、髷物であり、所謂大衆小説と称せられている処のものである。主として事件の葛藤、波瀾を題材としたものであって、従って興味中心的であり、多少は歴史的虚偽を交ぜても構わない種類のものである。
 現代の日本の大衆作家の作品の殆んど凡てはこれであると断言することが出来る。
 歴史小説と称ばるるものは、歴史的な史実の考証的研究の充分にされたものであって、歴史的事実は毫(ごう)も曲げずして、新らしき解釈を下した作品である。シェンキヰッチの「神々の死」等の諸作、フローベルの「サランボ」等の如きが例として挙げられ得るであろう。

というように、時代小説を大概念、伝奇小説と歴史小説とを小概念に定義しています。この分け方は、まず歴史を扱っている作品という括りをした上で、その事実度(史実度)の程度によって、伝奇小説と歴史小説というように振り分ける考え方だといえます。
 ただし、これだと一般に時代小説とされているものが抜け落ちてしまう恐れがあります。時代小説と聞いて何を思い浮かべるかは人それぞれでしょうが、おそらくは江戸時代を舞台にした人情ものではないでしょうか。そうした物語は、確かに歴史とか史実とかとはあまり関係ないかもしれませんが、さりとて荒唐無稽なデタラメが書かれているというわけでもないでしょう。その時代にあったとしてもおかしくない事件や人生が描かれているのが大半のはずですし、それが時代小説の醍醐味です。また、時代小説が実証や考証や疎かにしているのかといえば、決してそんなことはないでしょう。生活や雰囲気を描くためにも資料は必要ですが、そうした生活史だって歴史であることには間違いありませんしね。多分、時代小説には動かしえない歴史という名の枠があるという前提があって、だからこそ、その中で生きる人たちの人情に愛おしさを感じてしまうのではないかと思ったりもしましたが、よく分からないというのが正直なところです(笑)。

歴史小説と架空歴史小説

 歴史小説は歴史的事実を基にした小説とされていますが、歴史とは果たして事実なのでしょうか。歴史や史実も一定の資料を基に作られているものである以上、新たな資料が発見されればそれはフィクションだったということになるでしょう。また、邪馬台国の位置などがそうですが、ある事柄について複数の説が提唱されているような場合には、少なくともどちらかがフィクションなのは間違いなくて、もしかしたら両方ともフィクションなのかもしれません。つまり、歴史そのものがフィクションなのかもしれなくて、そうなると歴史と小説の区別すら曖昧なものになってしまいます。

わたしどもには、歴史と伝説との間に、さう鮮やかなくぎりをつけて考えへることは出来ません。殊に現今の史家の史論の可能性と表現法とを疑うて居ます。史論の効果は当然具体的に現れて来なければならぬもので、小説か或は更に進んで劇の形を採らねばならぬと考へます。わたしは、其で、伝説の研究の表現形式として、小説の形を使うて見たのです。この話を読んで頂く方に願ひたいのは、わたしに、ある伝説の原始様式の語りてといふ立脚地を認めて頂くことです。
『身毒丸』(青空文庫)より

というように伝説が小説となった場合には、もしかしたら歴史と歴史小説というのは単に形式が異なるだけなのかもしれません。しかし、仮に事実性が失われたとしても、それでも歴史には歴史としての価値があります。その証拠が架空歴史小説と呼ばれるジャンルの存在です。もし歴史=事実であるのならば、事実と架空とが両立するはずがありません。仮に事実でなかったとしても、歴史として接する人間の過去や物事の見方といったものには、人を規定し、さらには物語を規定するだけの力があります。だからこその架空歴史小説でしょう。
 このジャンルの代表作といえば何といっても『銀河英雄伝説』田中芳樹/創元SF文庫)です。もっとも、実は他にあまり知らないのですが(汗)、例えば、『黎明の双星』(花田一三六C・NOVELSファンタジア)では教会派と聖典派の対立するとある島国を舞台にした革命戦争が描かれていますが、その基になっているのはアイルランド史です。また、『征服娘。』神楽坂淳/SD文庫)では、作中に登場するサイプロス島という島があるのですが、文中にキプロス島という誤植があります(p143)。そのことからも、ヴェネツィアキプロスとの歴史的関係がモデルとなっていることが分かります(もっとも、巻末の参考文献をみれば明らかですが)。
 このように、歴史から事実性を排除したとしても、その枠組みだけで物語は作れてしまうのです。そこには、事実か虚偽かといった区別はあまり関係がありません。つまるところ、何が事実で何が虚構かも分からない人の営みについて延々と考える続けることが歴史学という学問の本質ではないかと思ったりしました。オチなしであしからず(笑)。

銀河英雄伝説 1 黎明編 (創元SF文庫)

銀河英雄伝説 1 黎明編 (創元SF文庫)

黎明の双星〈1〉 (C・NOVELSファンタジア)

黎明の双星〈1〉 (C・NOVELSファンタジア)

征服娘。 (スーパーダッシュ文庫)

征服娘。 (スーパーダッシュ文庫)