『シャドー81』(ルシアン・ネイハム/ハヤカワ文庫)

シャドー81 (ハヤカワ文庫NV)

シャドー81 (ハヤカワ文庫NV)

 本国で1975年に発表され日本では1977年に新潮文庫から刊行された本書*1ですが、そこに描かれているのはカバーイラストの通り、戦闘機による旅客機のハイジャックという大胆この上ない犯罪です。
 「事実は小説より奇なり」という言葉がありますが、事実よりも奇妙な物語を描いたはずの小説が皮肉にもさらなる事実の奇妙さによってリアリティを得てしまうという事態がときに起こります。1960年代後半から1980年代前半にかけて極左過激派によって世界的に多発したハイジャックという犯罪*2を描く際に、本書は小説としての斬新なアイデアを模索することでこうしたものになったはずですが、9.11のようなとんでもない出来事を目にしてしまった後ですと、本書のようなエピソードを荒唐無稽の戯言として笑い飛ばすのは難しくなってしまっています。そんな奇妙なリアリティを本書は持ってしまっています。
 巻末の解説では、本書はライアルやフォーサイスと並ぶ冒険小説の系列に位置付けられていて、実際ミステリとは呼びづらい作品ではありますが、作中で登場人物の口の端に上っているミステリという表現に敬意を払えば、犯人側の視点で描かれた倒叙ミステリとして読めないこともありません。実際、第一部ではこの無茶で無謀に思われる犯罪計画が着々と準備されていく様子が丹念に描かれています。
 続く第二部ではいよいよ計画が実行に移されます。そこで描かれているのは、ハイジャックもののお約束どおり、犯人と機長や管制官の間での交渉と駆け引き、心理的ストレスに見舞われる乗客と彼らがパニックに陥らないように苦心する乗員、大勢の市民の命を守りつつも犯人の確保の手段を模索する権力者側の無為無策ぶりといった諸々が段取り良く描かれていきます。そうした中で他のハイジャックものと異なるのは、やはり”犯人が機内にはいない”という手段の特殊性からくる犯人の立場の優位性です。それがあるだけに、計画が進められていく様子は淡々と描かれています。そこには一種の諦観にも似た客観性・ユーモアのようなものすら感じられます。そのシニカルな諦観は犯人が抱いているプロ意識の表れであると同時にその根底にある虚無感の表れとしても読むことができます。
 そうした犯人の心情が明らかとされるのが第三部です。ここでは少々意外なサプライズも用意されていて、それ故に本書をミステリとして扱うのもあながち間違いではないと思いますが、そこで語られる犯人の心情の告白には、ベトナム戦争の泥沼の渦中における倫理観の歪みが込められています。痛快でありながら深みのある冒険小説としてオススメの一冊です。

*1:2008年にハヤカワ文庫で復刊。

*2:日本だと1970年に起きた、よど号ハイジャック事件が有名でしょう。