『嘆きの橋』(オレン・スタインハウアー/文春文庫)

嘆きの橋 (文春文庫)

嘆きの橋 (文春文庫)

 東欧の架空の小国を舞台とした警察小説、通称〈ヤルタ・ブールヴァード*1〉シリーズの第1作です。本書の時代は1948年。大戦が残した傷跡は表面的には癒えつつあるようにも見えますが、社会の暗部と人の心に今なお深い傷を残している。そんな時代です。
 本書で主人公を務めるエミール・ブロードは、民警殺人課の新人捜査官です。大祖国戦争*2中にフィンランドで漁師をしていた彼は、戦争に参加していなかったことを周囲から非難されますし、そのことに対してコンプレックスも持っています。しかしながら、彼の心中と国家の状況はそう単純なものではありません。彼は彼で様々なものを見てきました。また、ミハイ書記長を始め現在の国家を支配しているのは戦争中ロシアに身を潜めていた者たちばかりです。祖国を守るために戦場に身を投じていた人間は粛清されてしまっています。そうして作られた共産主義政府国家が、彼の住む世界です。
 そんな背景もあって、エミールは赴任した初日から同僚の捜査官たちからの徹底的に無視されます。挙句の果てに与えられた任務はいかにも政治色の漂う危険な事件で捜査を進めるうちに若気の至りもあって暴走し、辞表を叩きつけるわ死にそうになるわといった段階になってようやく信用されます。良かった良かった。ですむかボケー(笑)。つまるところ、信用とか信頼とかの値段がそれだけ高値な社会だということなのです。思想・良心の自由が保障されていない社会の恐ろしさです。
 始めに「警察小説」という言葉を使いましたが、エミールの立場は民警です。彼の勤務する職場にはブラーノ・セヴという国家公安捜査官がいます。公安捜査官が国家レベルで統制された緻密な情報網に触れているのに対し、民警たちが持っている情報は、基本的には市民のそれと変わりがありません。もっとも、公安捜査官に頼めば教えて貰える情報もないではないので、その意味では市民と対等だとはいえません。その一方で、彼ら民警の捜査官たちの動きは常に公安捜査官によって監視され利用されている、ともいえます。つまり、国家対個人の関係が問題となる共産主義国家を舞台にした物語を描くにおいて、民警という立場は両者をつなぐ線(あるいは、一度渡ったら戻ることのできない橋)として貴重な存在です。そして、”線”としての存在意義が求められるからこそ、ときとして彼ら自身の”点”としての存在意義がぼやけることにもなります。
 本書で描かれている捜査官たち”個人”は、確かに命がけで捜査に当たってはいますが、決して高潔なばかりの存在ではありません。戦争中の悲劇を引きずり死にとり憑かれた者たちばかりです。本書の主人公エミールは捜査官たちの中では真人間の部類ですが(笑)、それでも、女性や暴力といったものに対して倒錯した衝動を抱えています。

エミールが殺人課にはいったのは、社会的良心が対象とする問題のなかでも、いちばん明瞭にして疑問の余地のないもの――殺人――に取り組むためだ。
(本書p107より)

 エミールが没頭するために選んだ殺人というテーマは、共産主義国家の社会的良心の真実を浮かび上がらせるものでもあります。証拠や推理よりも密告や陰謀が優先される非民主主義的捜査。真実よりも当為が優先される社会だからこそ、覆い隠される真実の悲鳴を表現するための手法としてミステリというジャンル形式が力を貸している、といってよいでしょう。
 もちろん、年代が年代なだけに、対戦期の大量死からの人間の存在意義の回復、という笠井潔のいうところの「大量死論」的な問題意識から本書を読み解くのも一興だと思います。
 本作が発表されたのは2003年。1989年にベルリンの壁が崩壊し冷戦構造が終りを告げて月日が経ったからこそ、こうした事柄もミステリという娯楽小説の題材として描かれるようになったのでしょう。本シリーズは全5部作とのこですが、この小国の社会的良心が今後どのように変化していくのか。個人的に非常に興味を覚えるところです。
【関連】
プチ書評 『極限捜査』(オレン・スタインハウアー/文春文庫)
ミステリと民主主義 - 三軒茶屋 別館

*1:2巻『極限捜査』で明らかになる地名。国家公安本部の所在地。

*2:本書ではそういう表現が用いられています。