『鏡の国のアリス』(広瀬正/集英社文庫)

 広瀬正・小説全集の4冊目は、長編作『鏡の国のアリス』の他に短編が3作収録されています。正直いって、これまでの3冊に比べると本作の出来は幾分落ちますが、コレクターズアイテムとしては無視することはできません(笑)。
 主人公の青年・木崎浩一がある日銭湯にゆっくり浸かっていたら、いつの間にか女湯にいたからビックリ仰天。変質者呼ばわりされた挙句に慌てて外に出ても道がサッパリ分からないし、なぜか自分のアパートもなくなってるからさらにビックリ。周囲を見渡せば文字という文字がすべて鏡文字になっている。どうやら、浩一は左右反転の鏡の国にきてしまったらしい。困惑しながらも、浩一は新しい世界で新しい人生を踏み出そうとするが……というお話です。
 タイトルを見れば一目瞭然ですが、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』をモチーフとした鏡の世界に迷い込んでしまった青年の物語です。もっとも、ストーリー自体は本当にしょうもないのですが、それはご愛敬ということで(笑)。
 面白いのは、浩一が迷い込んだ世界でお世話になる博士との会話で明らかになる、鏡の世界の不思議、鏡の不思議、左右の不思議です。鏡を見れば左右反転の鏡像が見られるわけですが、それは本当に左右が逆さになっているものなのでしょうか? 左右が逆さになるのに上下が逆さにならないのはなぜでしょうか? といったことを、鏡に映すものの裏表や上下を逆さにしたり、あるいは股覗きして覗いてみたりと様々な視点から鏡像を確認することで、鏡の左右の問題を教えてくれます。鏡像の不思議は素朴でありながらいつ考えても不思議な問題です。
 鏡の不思議だけでなく左右の不思議も本書のテーマです。鏡の世界にあっては、主人公の感覚は左右反対です。さらに、主人公の体内も左右反対なものとして扱われてしまうので、心臓の位置も左ではなく右にあることになります。それだけならまだ分かります。ただ、臓器が反対なら分子や原子といったものの構造はいったいどうなのか? そんなミクロの問題も取り上げられています。また、世の中は基本的に右利きの人に便利なようにできているので、突然利き手が反対になってしまった浩一は当然とまどうことになります。そうした社会的習慣としての左右の問題も本書のテーマのひとつです。
 つまり、もしも鏡の世界があったなら? といった設定についての考察が本作のメインなのです。そうした点について科学的な考察がなされているからこそ、本作はSFであり、SF作家として広瀬正が認知されている所以でもある、ということなのでしょう。
 ストーリーはもとよりオチも正直なところ好みではないので、あまりオススメとはいえませんが、まあ全集ですからこういうのもあってよいでしょう。
 この他に短編3作が収録されています。フォボスとディモス〉は火星の二つの衛星の名前。『鏡の国のアリス』のテーマの延長線上にあるかのごとき作品です。1925年から始まる〈遊覧バスは何を見た〉は、いかにも『マイナス・ゼロ』の作者らしい作品です。〈おねえさんはあそこに〉は、一冊の本の最後を締めくくるのに相応しい作品です。