『トスカの接吻』(深水黎一郎/講談社ノベルス)

トスカの接吻 オペラ・ミステリオーザ (講談社ノベルス)

トスカの接吻 オペラ・ミステリオーザ (講談社ノベルス)

 オビの文句に芸術探偵・瞬一郎×海埜刑事の凸凹コンビが大活躍って書いてありますので、『エコールド・パリ殺人事件』から始まるこのシリーズも、ひとまずは芸術探偵シリーズということでよいでしょうか。もっとも、本書を楽しむのに必ずしも前作を読んでいる必要はありません。ただ、芸術には真・善・美の三つの側面があるとされていますが、普通はやはり”美”の追求が第一でしょう。そしてミステリは”真”の追求が第一となります。そんな”美”と”真”の葛藤と緊張関係の中から”善”なるものが浮かび上がってくる。まだ二作しか出てはいませんが、シリーズ通してのテーマはこんなところにあるのではないかと思います。
 それはさておき本題に入ることにしましょう。本書のお題はオペラです。私は生憎オペラなどサッパリですが、物語冒頭で事件となるオペラ『トスカ』が丁寧に「上演」されますし、そもそものオペラについても作中できちんと説明されますので、オペラについてまったく無知でも問題はありません。ってゆーか、そうした薀蓄もミステリの醍醐味というものです(笑)。
 本書では、オペラにおける演出家の役割というものがクローズアップされています。オペラでは台本作家の残した台詞と作曲家の残した総譜は不可侵のものです。音符の一つ、歌詞の一節を変えることすら許されません。それでも、演出家はそこに新たな解釈を見出し、それを観客にアピールするための最良の演出を用意する。そうした意図的な〈読み替え〉によって、古き物語が語り継がれつつ新しい物語がまれることになります。
 演出の自由についての薀蓄は、当然のことながらミステリの解釈・テキストと読者との関係についてまで及んできます。テキストには読み取られるべき絶対の真実があるとするピカール教授派と、その反対に、テキストには唯一無二の意味というものはなく読む人がどのように解釈しても構わないというロラン・バルト派の主張。ミステリというジャンルでは、原則として真実はひとつです。でも、その真実の背後には無数の仮説が作中のみならず読者の頭の中に存在しています。そうしたものの価値をどのように理解し、あるいは付き合っていくのか。それがミステリの面白さでもあります。
 そうした解釈の多様性の問題は、作中で発生する二つの殺人事件ともメタ的な意味で深く関わっています。第一の殺人事件である郷田薫の死。これについては捜査が進むにつれて二つの仮説が有力な線として浮上してきます。もちろん、当たりは片方のみでもう一方は外れなわけですが、しかしながら、物語は当たりにのみばかりあるのではありません。外れた仮説であっても、そこには物語があります。
 第二の殺人事件では、被害者のとっていたポーズや現場に残されていたメッセージの意味が問題となってきます。ここでもまた、解釈の多様性、つまりはダイイングメッセージ・見立ての解釈といったことが問題となってきます。ミステリといえば論理性とかの頭でっかちなイメージが付きまといがちではありますが、実際には荒唐無稽かつ無駄な発想や想像力が必要とされる場合があります。そして、それもまた間違いなくミステリの魅力なのです。被害者のとっていたポーズについては、作中の真相開陳の場面でその答えが明らかにされています。しかしながら、ここであえて読者としての〈夢見る権利〉を行使させていただくとすれば、それはやはり『トスカ』においてスカルピアがとっていたポーズを模したもので、つまりはスカルピアのように死にたいと思った被害者の意志なんじゃないかと思いました。
 本書は私みたいな無学者にとってはオペラの入門書になり得るであろう一冊ですし、そしてまたミステリの入門書にもなり得る一冊でしょう。つまるところ、広く”芸術”というものに興味のある方であれば誰でも楽しめちゃう一冊だと思います。
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 以下は蛇足めいた法律的な雑感です。興味のある方だけどうぞ。
 第一の殺人事件はオペラに用いられた小道具の入れ替えによるものです。犯人が直接被害者に危害を加える類のものではないので、通常の殺人と比較しますと因果関係が間接的なものになります。なので、作中でも触れられている通り、確かに実行行為から結果発生の確定的な認識が導き出されるか否かは微妙なところがあるかもしれません。そうした点を踏まえて、作中では未必の故意という法律的論点が話題となっています。未必の故意とは、結果発生の可能性の認識はあったが、その結果発生について確定的な故意のなかった場合をいいます(参考:Wikipedia)。ここでミステリ読みであればプロバビリティーの犯罪*1というのを思い浮かべる方もおられるでしょう。両者を比較すれば、未必の故意の場合は主観として結果発生の可能性が確定的でない場合を指す。一方、プロバビリティーの犯罪においては結果発生の故意自体は確定的なものではあるけれど、客観的な結果発生の可能性が極めて低いために、仮に結果が発生したとしても犯罪として問われにくい場合を指す。ということになるでしょうか。もっとも、故意といっても必ずしも主観面ばかりが問題になるわけではないので、主観と客観を安易に切り離すわけにもいきません。また、一方は法律用語で片方はミステリ用語と出自が違いますから、両者をばっさりと区別しちゃうのには躊躇せざるを得なくて、今後の課題ということにしておきたいと思います。
 しかしながら、本件のようなケースですと、未必の故意よりも避けて通ることのできない法律的論点があります。それが間接正犯です。間接正犯とは、他人を道具として利用することで犯罪を実現する場合をいいます(参考:Wikipedia)。例えば、何も知らない郵便局員を利用して爆発物を被害者の元へ配達するとか、あるいは、点滴の中身を毒物に替えといて看護師に点滴させるといった場合がそれに当たります。被利用者がそのことを知らないことが要件となってくるわけですが、本件の場合はまさにそうした事例に当たるでしょう。
 未必の故意が出てくるのに間接正犯が出てこないのは法学的にはバランスを欠いています。ただ、未必の故意にしろ間接正犯にしろ、そのように認定するのが妥当か否かは真相が明らかになってからでないと判断できません。なので、そうではない仮説の段階であれば未必の故意を持ち出してきても論点違いとまではいえません(それでも、まずは間接正犯について論じるべきだと思いますが)。そして、明らかにされた真相を踏まえた上で改めて考えてみますと、故意の問題としたのも分からないではありません。故意とは何か? 意志とは何か? といった自由意志と決定論の問題。悲劇性や情状酌量についての感じ方は人それぞれでしょうが、某超有名ミステリを思い起こさずにはいられないこの結末が、私なりに消化するのがなかなかに厄介なものであったことは告白しておきます。
 あと、明確な殺意の下になされた計画的な殺人事件に比べれば、未必の故意による殺人の場合は、量刑はずっと軽くなるのが一般的である。(本書p66より)との記述がありますが、これは私には疑問です。確かに、衝動的な殺人よりも計画的な殺人の方が量刑として厳しい判断がされる傾向はあるみたいですが、その場合に未必かどうかが量刑の判断に影響を及ぼすという話は聞いたことがありません。たとえ未必であったとしても故意は故意です。犯罪該当性の判断と情状面の判断をごちゃ混ぜにされては困ります。そもそも未必の故意と認定される事例ってかなり特殊なケースです。そうした特殊さゆえに、情状面の判断も一様ではないので普通の殺人とは量刑判断で差が生じることはあるでしょう。しかし、その原因を未必の故意であることに求めるのは違うと思います。この点について、何かご存知の方がおられましたらコメントなどいただければ幸いです(ペコリ)。

*1:「こうすれば相手を殺しうるかもしれない。あるいは殺し得ないかもしれない。それはそのときの運命にまかせる」という手段(『新版 探偵小説の謎』[江戸川乱歩教養文庫]p98より)