『カリブ諸島の手がかり』(T・S・ストリブリング/河出文庫)

カリブ諸島の手がかり (河出文庫)

カリブ諸島の手がかり (河出文庫)

 本書は、1925年から26年にかけて発表されたポジオリ教授シリーズ第一期の5作品が収録された連作短編集です。心理学が専門のポジオリ教授という主人公(探偵役)とカリブ諸島という舞台の共通性はありますが、各事件ごとのつながりはありません。そういう意味では各作品が独立した短編集のようではありますが、本格ミステリにおける探偵の役割とは何か? といったテーマ的な意味では間違いなくシリーズものです。なので、順番どおりに読まれることを強くオススメします。それにしても、ヴァン・ダイン以前のミステリでありながら「新本格もかくや」というような「探偵」という存在についての着想の鋭さには驚かされました。クイーンがほれ込んだというのにも納得です(詳細については本書の解説参照)。
 ちなみに、単行本では現地人の言葉が関西弁に訳されているそうなのですが、本書(文庫版)ではそうした仕様にはなっていません。したがいまして、既に単行本をお読みになっている方につきましては、翻訳の違いを確認してみる楽しみ方もあると思います。古典とは思えない斬新な趣向には本当に驚きました。特に、5作目の「ベナレスへの道」は白眉ですので、とにかくオススメの一冊です。
(以下、各短編ごとの雑感を。一部ネタばれを含みますので未読の方はご注意を。)

亡命者たち

「わが依頼人の説を見限らないでくださいよ。北の方の気質に合わないからといって。オランダ人には不自然に映ることが、ラテン系の人にとってはいちばん自然な行動ということもありうるんです。もろ手を挙げて賛成というわけじゃないんですが、ポンパローネさんの説にも一理あると思います」
(本書p31より)

 探偵が行う推理の論拠となるものに「合理性」というものがあります。容疑者の言動に不合理な点があれば怪しくて、合理的なものであれば怪しくない、ということになって、つまり怪しいか怪しくないかの基準となります。「合理性」というと何か客観的な基準のように思えますが、実際には本書でも指摘されているように必ずしもそうとは限りません。本書でポジオリが旅をしている西インド諸島は西欧諸国の植民地であったこともあり、様々な人種と文化が混在しています。そうした中にあっては「合理性」なる基準は実にあいまいなものとなります。そこが本シリーズの面白いところです。

カパイシアンの長官

 シリーズものの探偵役が向かうところには常に犯罪あり。それは巻き込まれ型の探偵というようなシリーズものとしての作者の都合といったメタ的な側面もあるわけですが、作中の人物にしてみれば事件について何らかの決着をみるために探偵役のキャラクタを利用するといったことも考えられるわけです。高みから容疑者を見つめ未来から過去の事件を事後的に考察する探偵役は安全で特権的な地位が与えられがちではありますが、そうした位置が常に保障されているとは限りません。

「人間はだれだって、真に全知の審判者は自分を赦してくれるだろうと思っているんだよ。心の奥底では、人はだれしも自分の行いはすべて赦されると感じてるからね。どんな悪人や馬鹿でも。みなさん、宗教というものはまさにここから始まるんですよ。すべてを理解して赦す全知の存在を、人が切に望むところから」
(本書p138より)

 これは呪術医とそれを信じる人々についての言及ではありますが、探偵というものへの皮肉でもありますね。読心術の真相が自白剤というのは本作だけ読むと乱暴なようですが、前作でその存在が仄めかされている(本書p27)ことを考えますと実に周到だと思います。

アントゥンの指紋

「ねえ君。もし犯罪がなかったら、法も警察もなくていいじゃないか。犯罪があるからこそ存在価値があるんだよ」
(本書p208より)

「法律が実際に禁じているのは、捕まるような未熟な金庫破りだと。本当に成功した者は、まったく法の埒外にあるんです。だから、こう言っても差し支えないでしょう。法律は、へまなやつや馬鹿や分際外れの高望みをする者に向けられているのだと」
(本書p237)

 犯人なくして探偵なし。確かにこれは探偵にとってひとつのジレンマです。その一方で、ばれなければ犯罪ではないが、ばれなければ犯人が行なった芸術的な犯罪が誰にも気づいてもらえない。これは犯人にとってのジレンマです。そんな探偵と犯人といった表裏の存在が抱えているジレンマを浮き彫りにしようしたのが本作の狙いだと思われます。冒頭のポジオリとド・クレヴィソーとの理論と実地についての会話に表れているように、理が先に立った物語だと思います。なので、犯罪としての実際的な側面について考えるといろいろと疑問はあるのですが、まあ大目に見ることにします(笑)。
 ちなみに、本作では建築物と犯罪の関係についての考察から賭け事が始まるのですが、日本の本格ミステリにおける「館もの」の人気と併せて一考に価するテーマだと思います。

クリケット

 探偵が物語を作るのか。それとも、物語が探偵を生み出すのか。作中で行なわれているスポーツはクリケットですが、それに限らず野球でもサッカーでも何でも良いのですが、各プレイヤーは勝利のためにそれぞれが全力を尽くします。その結果として勝敗がつくわけですが、そうした試合は「戦評」としてひとつの物語に要約されます。大抵の場合には活躍したと思われる選手を中心にその物語は組み立てられることになるわけですが、それによって試合の真実をどれだけ把握できるかは微妙なところでしょう。試合自体の面白さと、それを物語にしたときの面白さの質の違いといったギャップが楽しい作品です。

ベナレスへの道

「いっそクリシュナと分かれて、この世でいちばんあさましい哀れな生き物になりたい。つがい、争い、望み、殺し、殺されるような生き物に。この何もない宇宙に置き去りにされるよりは!」
(本書p416より)

 連作短編の最後を飾るに相応しい傑作です。この結末には驚きました。素人探偵として「人間狩り」を行なってきたポジオリ。嘘をついたり隠し事をした人物を憎んできた彼。そうした立場にあったからこそ、本作で彼が立たされた窮地は皮肉を極めたものになっています。本作の真犯人が本作のような策を講じたのは、警察に徹底的な捜査を行なってもらうことで確実に自分を有罪にしてもらうためのものだったわけですが、その策によって「探偵役」という絶対的な謎解き役を殺してしまうという構図の目の眩むような鮮やかさ。本当に古典なのかと疑いたくなるような見事な出来栄えには満足の一言です。